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○あやログ - 最新エントリヘッダーナビゲーション現在のカテゴリー位置サイト全体のカテゴリーナビゲーション◆郷土について 青野の噴砂と「丹波国地震三日」 2011/07/09 11:41 pm
(1)
以前、青野西遺跡の噴砂についてメモした。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=180 『綾部市文化財調査報告 第16集』(綾部市教育委員会1989年)では、 「その他今回の調査[青野西遺跡第3次調査]において検出されたものとして、地震による噴砂の痕跡がある」 「噴砂は地山下層の砂礫層から幅1m高さ1mにわたって噴出している」 「これらの噴砂は、第4次調査においても検出されており、その調査結果や古記録等から、8世紀初頭(大宝年間)と推定されている」 としている(68頁)。 ここにいう「古記録」「8世紀初頭(大宝年間)」というのは、『続日本紀』大宝元年(701)年三月の「丹波国地震三日」を念頭に置いた記述である可能性がある。 寒川旭『地震の日本史』中公新書2007年にいうように、 「砂脈は古墳時代前期頃の竪穴式住居とその埋土を引き裂き、平安時代の住居の柱穴は砂脈を貫いていた」(41頁) ことから、青野西遺跡の噴砂を起こした地震の発生が古墳時代前期と平安時代との間ではあろう。 ただし「それを大宝年間にまで絞り込めるのか知りたい。」と以前のメモでは記しておいた。 (2) 山本・松田・大長・萩原(※)は、 ・『続日本紀』の「大宝元年三月甲戌朔己亥丹波国地震三日」 ・『丹後風土記残欠』の「大宝元年三月己亥地震三日已まず。此郷[凡海郷]一夜にして蒼田変じて海となる」 について検討した。 (※)山本武夫・松田時彦・大長昭雄・萩原尊禮「大宝元年の地震の虚像−若狭湾冠島・沓島の沈没」(萩原編著『古地震−歴史資料と活断層からさぐる』東京大学出版会1982年、第6章) この論文中、山本「冠島沈没の史料吟味」によれば、『丹後風土記残欠』は後代の偽作であって、大宝元年三月の地震により凡海郷が沈没して冠島・沓島が残ったという話は信じがたい。 また松田・大長・萩原は冠島を現地調査した(「冠島の地学調査」)。もし大宝元年の地震による沈降で冠島・沓島が生じたとすれば、沈降量は60m以上でなければならないが、一度の地震でそれだけの沈降が起きることは考えがたい。冠島・沓島の東側に崖地形があるがそれが断層であるとしても冠島・沓島は沈降側でなく隆起側である。丹後の海岸地形は大宝元年より前から存在していたと考えるべきである。 従って残るのは『続日本紀』の「丹波国地震三日」だけである。 「その記述からわかる確かなことは、丹波の国内でかなりの有感地震が三日間続いたということだけである」(萩原編著『古地震−歴史資料と活断層からさぐる』110頁)。 そして丹波国以外(当時の藤原京を含む)での地震状況に関する記載がないこと、丹波でも丹波以外でも被害状況に関する記述がないことなどから、「丹波国地震三日」は、「丹波国で生じた局地地震」(同110頁)である可能性がある。 「その規模は昭和二年の北丹後地震(M7.5)に比べて遙かに小さいものであったと考えられる」「強いてマグニチュードを推定すれば、大きくみても北丹後地震より一階級小さいM6.5程度であろうか」(同110〜111頁)。 (3) たしかに宮津から舞鶴、若狭にかけてのリアス式海岸は沈降に伴うものだが、それは長年の歴史によるものであって、わずか千年前に急に起きたとは考えがたいだろう。 京都府レッドデータブックでは、「最終氷期には、湾は完全に陸化し伊佐津川などの河川は北流し由良川と合流して、冠島の東側付近で日本海に流入していた。その後の縄文海進により谷地形が水没し、複雑な海岸線とおぼれ谷地形が形成された。」としている。 http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0011.html とすれば、舞鶴湾付近の日本海岸の地形が今の様子に近づいたのは千年前というオーダーでなく一万年前などのオーダーになるし、一度の地震にともなうものでもないだろう。 『丹後風土記残欠』にいう冠島・沓島の生成は、後代の人間が神話的な物語として創造したものだろう。 仮に『丹後風土記残欠』にいう「蒼田変じて海となる」ような大地震であれば、相当な広域にわたって地震およびその被害の記録が残るはずであって、「丹波国地震三日」だけの記載で済むとは考えにくいだろう。 青野西遺跡の噴砂を起こした地震が古墳時代前期と平安時代との間に起きたものであるとして、大宝年間とまで絞り込めるのかどうか、出土物やその状況などを加味することによってそれが可能なのかをやはり知りたい。 考えられることとして、ひとつは同位体分析による絞り込みができないか、ということがある。 もうひとつは、噴砂が青野西遺跡の地点においてだけ発生したとはかぎらず、綾部盆地の他の地点においても発生している可能性はあるから、複数地点の調査によって絞り込めないか、ということが考えられるかもしれない。 このエントリーの情報◆郷土について 里村紹巴は上林に何泊したか 2011/05/11 1:11 am
ここでは里村紹巴の「天橋立紀行」(1569)における上林での泊数についてメモする。
(1) 古屋に「洞峠」というタイトルの看板が立てられた。 「連歌師里村紹巴が上林に一泊」と記されている。 (2) 綾部市史(上)444頁〜に引用する「天橋立紀行」では以下のようになっている。 「丹波さかひの岸谷峠は月に成りて上林かが別館に入り 一日足をやすめ嫡孫城などへあがりけるに一折興行あらましありながら人数などしかじかしからぬとて発句所望に 枕かす宿なくともの花野哉 六夜やどりける あるじ廿ばかりなるが風雅に心ざしありて鶏鳴よりおきいとなみ 人馬に心をそへられしゆへ あまたの坂をこえて宮のわきと云所に付ぬ」 ここでは「六夜」と書いてある。引用元は記されていない。 http://www.obs.ayabe.kyoto.jp/~a-museum/sisi/kinsei.htm (3) 大日本史料では「二夜やどりける」となっている。 http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/02/1002/0711.tif (4) 奥田勲「「紹巴天橋立紀行」について」『国文学攷』53号(1970年6月)は、「天橋立紀行」の広島大学本をベースとしつつ、東大史料編纂所本、内閣文庫本を参照して校正した本文を掲載している。 ここでも「二夜やどりける」となっている。 以上のことから、テキスト校正をもとにすれば、一泊でも六泊でもなく、二泊であった可能性が出てくるだろう。 このエントリーの情報◆郷土について 勢期の鏡石と断層鏡面 2011/01/24 12:50 am
『丹波志何鹿郡部』勝地之部に、
「鏡石 勢故村 往来岸ニ有リ 四尺五寸廻リ三間ト云 御帳付 近年迄女筵ヲ敷キ四五人モ髪ヲ結ト 其後ワルサヲ成者有 見エウスシト云」(綾部史談会版76頁) とある。 横山卓雄『京都の自然ふしぎ見聞録』(三学出版2009年)に 「京都には断層の残したものと考えられる現象がある。その代表が鏡石で、地名にも残っている。…[略]…筆者は全国の鏡石は断層鏡面だと考えている」(141頁) とある。 断層により強い圧力のもとで岩石にずれがおきると摩擦面に光沢ができる。鏡石や鏡岩と呼ばれる断層鏡面は各地にある。 http://www.gsj.jp/geomap/geophoto/slickensideJ.html 勢期の鏡石も断層鏡面なのだろうか。 「其後ワルサヲ成者有 見エウスシト云」のひとつの現代風の解釈は、風化によって光沢が失われたというものである。 以上のことは勢期の鏡石の現物を未確認のまま記した。 勢期には鏡石という小字もある。現物の場所が確認できれば何かが分かるかもしれない。 このエントリーの情報◆郷土について 人が作ったかもしれない繞谷丘陵 2010/09/29 2:00 am
■以前、「箱庭のなかの私たち−水がつくる地形」の記事で、いくつかの繞谷丘陵(環流丘陵)について記した。
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=9 ここでは福知山市瘤木の繞谷丘陵についてメモする。 ■堀淳一氏は1974年冬、和歌山県串本町うえの前の繞谷丘陵を訪ねた(堀淳一・山口恵一郎・籠瀬良明『地図の風景・近畿編III奈良・三重・和歌山』)。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=333143&l=1355023 「町[引用注:津荷]の五〇〇メートルほど北の左手に、かつて津荷川の攻撃斜面だったと思われる急斜面が、美しい半円弧を描いていた。その北端から紀勢本線の下をくぐり、うえの前の家々の前を通って、川の左岸に突き出ている小さな山脚を二つまわると、さっき見た斜面よりさらにみごとな、比高九〇メートルに達する半円形の谷壁が眼前にそそり立ち、その手前に前方後円の古墳のような形をしたまるっこい丘が横たわっていた。 うん、きれいな繞谷丘陵だ、とT君と私はうなずき合った。もっとも、丘を南からまわって、ショートカット地点の上流側に出たとき、私たちははて? と首をひねった。よく見ると地図からもわかるのだが、水路の両側が岩の露出した急崖になっていて、人工の切り通しのように見えたから。しかも、切り通しを通りぬけると、東側には高さ四メートルほどの滝があったのである。 こんな切り通しや滝が川によって自然につくられたとは思えない。明治時代の地図でも川はすでに短絡しているから、開削はそれ以前ということになり、そんな昔に莫大な労力をかけて岩を削るだけのメリットが果たしてあったのか、という疑問は残る。しかし、多分これは人工的な繞谷丘陵なのだろう。」(同書162〜165頁)。 ■福知山市瘤木集落の対岸に繞谷丘陵らしき地形がある。以前から気にかかっていたこの地点を2009年夏に訪ねた。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352135&l=1350613 川は三岳山東麓の水を集めて流れてくる。丘の周囲を馬蹄形の攻撃斜面が囲繞し、丘の形状はなだらかに磨かれていかにも繞谷丘陵のかたちをしていたが、気づいたのはショートカット地点に非常に人工的な香りのすることだった。 ここでは岩の基盤が垂直の箱状に開鑿され、川にはコンクリートで階段状の堰堤が築かれている。自然のショートカットであればもう少し、なめらかな地形になっているはずだった。 上引の「水路の両側が岩の露出した急崖になっていて、人工の切り通しのように見えた」というのがそのまま当てはまった。 その後、陸地測量部の二万分一地形図「河守町」(明治26年測量・明治29年製版印刷)を見ていると、その時点ではこの地点がショートカットしていないことに気づいた。 上記の和歌山県の例では「明治時代の地図でも川はすでに短絡している」とあったが、こちらの例では明治時代において川は短絡しておらず、非常に細長い馬蹄形を描いて冗長に蛇行しているのだった。 その蛇行していた分の短絡前の長さは400メートル前後であって、ゆるやかに流れ下るその長さで稼いでいた比高を一地点で貫通させているわけであるから、現在の堰堤の地点の落差は大雑把に3メートル前後ほどあった。 落差のあるのは川底だけでなく、上流側の水田と下流側の水田との間にも落差があった。現在の国土地理院の地形図でも、蛇行部分の下流側半分に等高線が走っていて、下流側が低くなっていることがちょうど見て取れる。 もちろん、明治と現在との間で、自然の力で河道がショートカットする可能性は一般的には否定できないだろう。ただこの地点のショートカットのしかたは非常に作為的であり、人工的に河道がショートカットさせられたことを推測させるのだった。同地の郷土史類を眺めてみれば経緯が書いてあるかもしれない。 ■川の流路を人工的に変化させることを川廻しという(阿由葉司「河道変遷」、有薗正一郎ほか編『歴史地理調査ハンドブック』2001年、79〜81頁)。平野部において蛇行河川を人工的に短絡し三日月湖状に残存した旧河道を水田化するというのが典型的なイメージのようであるが、ここで見た串本や福知山の例のように、山間部において恐らく人工的に河道をショートカットさせ、結果的に人工的な繞谷丘陵が残されたと思われる場合もある。これをも川廻しというかは別として、たとえば水田面積を増やすためとか、増水時に水流が滞留するのを解決するためなどの理由があったのだろう。 「わが国の歴史時代の自然環境は、これまでの予想以上に人為的に改変されているようであり、その正しい評価はぜひとも必要である」(貞方昇「地形・地質環境」、有薗ほか編『歴史地理調査ハンドブック』61頁)。 上で触れた陸地測量部地形図「河守町」に描かれている由良川の姿も、現在のものとは少なからず異なっており、千原のあたりには河跡湖も描かれている。 ひごろ自明視している郷土の景観のなかにも、人工的な作為のかげがひそんでいるかもしれない。 このエントリーの情報◆郷土について 鬼ヶ城と鬼ヶ城峠 2010/09/22 10:30 pm
■鬼ヶ城山頂からの展望(動画)
■鬼ヶ城山頂からのパノラマ画像 ![]() http://www.myayabe.net/web/uploads/blog/onigajou201009.mov 上の画像からリンクしてあるonigajou2010.movは、Quicktime VRによる鬼ヶ城山頂からの360度パノラマである。 まずQuicktimeが正常にインストールされていることを確認する。まだの場合や、以下の工程がうまく行かない場合は、APPLEのサイトから最新版をインストールする。 http://www.apple.com/jp/quicktime/download/ 上の画像からリンクされているonigajou2010.movをローカルにダウンロードし、QuicktimeでOPENする。 QuicktimeがWEBブラウザに関連付けられている場合は、ブラウザのウィンドウ内でプラグインとして表示することも可能である。 鬼ヶ城山頂からの360度パノラマが表示される。キーボードの矢印キーもしくはマウス操作で表示を動かすことができる。 [表示]−[全画面表示]を実行するのが望ましい。全画面表示のショートカットはCtrl+Fである。 ズームインはShitキー、ズームアウトはCtrlキーである。 ■樹が生えていなかった鬼ヶ城 明治11年(1878)の『丹後國加佐郡町村誌』(京都府立総合資料館蔵)の「南山村」の節に、 「鬼ヶ城山 高周詳ナラス村ノ南ニアリ嶺上ヨリ四分シ南ハ丹波國何鹿郡印内村ニ属シ西南ハ天田郡猪崎村ニ属シ西ハ同郡中村ニ属シ北面ハ本村ニ属ス山脈〓(虫偏に廷)蜿シテ四方ニ連亘ス満山樹木ヲ見ス唯柴茅ヲ生スルノミ登路一條本村字室谷ヨリ上ル昇リ十七町険ナリ渓水三條アリ共ニ山間ヨリ発注シ北流シテ室谷川水源トナル」 とある。このことから、明治11年頃の鬼ヶ城は「満山樹木ヲ見ス唯柴茅ヲ生スルノミ」であったことが知れる。「唯柴茅ヲ生スルノミ」であるから、今の鬼ヶ城の景観とはかなり異なったものであったことだろう。 明治26年測図明治29年製版の陸地測量部二万分一地形図「河守町」でも、鬼ヶ城は草地の記号で覆われている。このことは『丹後國加佐郡町村誌』の「唯柴茅ヲ生スルノミ」と矛盾しない。この地図では鬼ヶ城の東面には樹木の記号もあるが、特に鬼ヶ城の西面において草地の優越が顕著である。 当サイトでは大正生まれの綾部市住民にインタビューし、幼少時(戦前)に遠足で鬼ヶ城に登った際、鬼ヶ城に樹は生えておらず、一面の笹原の中をかき分けて行く道であったとの情報を得た。 ■鬼ヶ城と一里塚 舞鶴市郷土資料館で2009年1月に展示されていた丹後国田辺絵図(田辺藩主牧野家文書)に、鬼ヶ城と鬼ヶ城峠が描画されていた。 大江町の在田は、和田垣から在田に改名されたらしいが、この地図の時点では和田垣と記載されている。 この地図では鬼ヶ城峠の道が赤い線で示され、「坂ノ内十二町馬不通」と記されている。 「壱里塚」が描画されていることから、このことから、観音寺の上部、鬼ヶ城峠の道に一里塚があったことがわかる。 ■巡見使の道 「諸国巡見使は、江戸時代、将軍の代替りごとに幕府から五畿七道の政情・民情視察のため派遣された臨時の使者の職名である」(『舞鶴市史・通史編(上)』[1993]1024頁)。 福知山−田辺−宮津の順路で巡見する場合のルートは、舞鶴市史によると、 「鬼ヶ城御境(福知山藩境)−鬼ヶ城登山−室尾谷山観音参詣−南山村−有田村−常津村−尾藤村−千原村−千原村渡場−河守−金屋村境−上野村−北有路村(泊)−北有路村船場−二ヶ村揚場(以上、現大江町)−桑飼下村(小休)−久田美村口−真壁峠(小休)−城屋村−野村寺村−高野由里村−京口番所−田辺(泊)−宮津口番所−上福井村−大船峠(小休)−中山村(小休)−中山村渡場−和江村揚場−石浦村−由良村(昼休)−浜通の−長尾峠御境(小休)−(宮津藩)」(同1026頁) であった。 「滝洞歴世史」に以下の記述があるという(同1025頁)。 「宝永庚寅七年六月十七日 御巡見宮津ヨリ田辺エ御コシトマリ十八日北有路村立玄加兵衛孫兵衛トマリ 十九日鬼ガ城御ラン福知山ヘ御コシ……」 上記のルートを参考にすると、この「鬼ガ城御ラン福知山ヘ御コシ」は、室尾谷山観音寺から鬼ヶ城と鬼ヶ城峠を経て福知山に出たことになる。 陸地測量部の二万分の一地形図では、鬼ヶ城峠の道は室尾谷を詰めるが、峠を越えたあとは池部の谷に降りずにスライドして醍醐寺のある猪崎の谷に降りている。そのほうが福知山城のあたりからも直線的に行けるルートとなる。また名所である醍醐寺と観音寺の両方に立ち寄ることが可能である。 寛政十一年丹波國大繪圖にも「鬼ヶ城峠」の道筋が線で示されているが、その出発点は池部でなく猪崎である。このことも、鬼ヶ城峠が室尾谷と猪崎を結ぶ峠であることを示している。 (注)最後の巡見使に関する記述は、既に掲載した記事を再掲した。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=96 このエントリーの情報◆郷土について 上林から山を越えて来られたかもしれない薬師様 2010/09/13 3:00 am
■和知と上林谷との一体性を連想させるものとして、十倉の河牟奈備神社にある「阿上社」石碑がある。
永久二年(1114)の銘の真偽はここでは不明とするほかない。ただ「阿上社」は和知に複数ある神社の名であり、和知との間に何らかの関係が想像される。 (村上佑二「金石文の再発見−阿上社石碑について」『綾部史談』86号1967年7月参照) 『和知町誌 第一巻』1995年では、 「和知の四社と上林の摂社阿上社の間に何らかのつながりのあることが推定される。すなわち、和知の惣社である本庄阿上社が、農産と養蚕の神として古来和知谷において尊崇され、和知では三社に分祀され、さらに地形的に隣接する上林谷に祀られるようになったと考えることは、無理な推論ではないだろう」(717頁) としている。 ■阿上社は和知から上林へと山を越えたものであろうが、一方、上林から山を越えて来られたかもしれない仏様として、養立の薬師堂(養隆山瑠璃光寺)がある。 この薬師堂の境内には文化八年(1811)の蚕供養塔がある。 「ここの本尊(薬師像)は、かつて上林谷に祀られていたものを某氏が一人で背負ってこの養立に来て移し祀ったいわれがある」 「毎年、二月上旬の休日には村の老若男女が相集い、盛大にお祀りを祝う。当日、洗米で作った「オシロイ餅」を供え、最近では数少なくなった「数珠繰り」も伝承されており、一年を通じての安全と災難除けの祈祷が行われる。念佛を唱えながらの昔そのままの行事の姿が残されている。」 (和知町教育委員会『和知の道−むかし物語』16頁) この「かつて上林谷に祀られていた」というのが本当でなければそれはそれとして、本当であるならば、上林谷のどこに祀られていたか。 武吉は犬越峠をはさんで西河内との地理的一体性があり、その山中には、かつて荊城山薬師寺があった。 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=32 養立に近い薬師ということでまず想起されるのはこの荊城山薬師寺であるが、本尊薬師如来はいま、福知山の丸尾山圓應寺にある。 「荊城山薬師寺古跡 武吉村 深山ニ古跡 字ニ大御堂小御堂ト云所ニ七堂伽藍 五丈斗滝アリ 天正年間明智光秀福智山城エ引 諸仏残リ村エ引取 三間四方薬師堂安置ス 居仏三尺斗観音勢至像五尺斗 庵ノ本尊大日如来ヲ合テ三尊 上林七里ノ谷勝テ大仏也 其外古仏多シ 吉祥院麻呂子親王七仏薬師ト云云」(『丹波志何鹿郡部』綾部史談会版63頁) 「時うつり明治初年となり廃仏毀釈の厄にあい堂は壊され諸仏まさに処理されようとする寸前、通り合わせた福知山の商人に薬師如来観音勢至菩薩の三体は買とられ、後に笹尾の円応寺境内に祀られて今日に至った」(井上益一「玉泉寺と大日如来」『綾部の文化財』第23号、1986年3月1日) 従って、養立の薬師は武吉の荊城山薬師寺から来られたのではないのだろう。 ただし、この点に関するもうひとつの考え方として、武吉の荊城山薬師寺に薬師如来が二体おられ、ひとつが武吉を経て福知山に、ひとつは山(たとえば犬越峠)を越えて養立に移られたというようなことが、なくはないのかもしれない。 次に、西河内の中での養立の位置に注目すると、上林から山を越えてくる経路としては忠を経て忠峠(タラ坂)、もしくは浅原を経て堀尾峠の2つが残る。堀尾は養立の地名である。 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=4 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=5 多数の寺坊を擁していた君尾山や蓮ヶ峰のあたりの遺仏なのだろうか。 数年前に忠峠(タラ坂)を訪ねたとき、峠の北側に地すべり地形の平坦地があり、「かつて寺などがあったとして不思議ではないと感じられるような印象的な平地である。」と記した。 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=5 離れ技として、この平坦地に仮に薬師がおられたと空想すれば、養立に最も近い候補地となるが、文字通り空想なのかもしれない。 大栗峠から鉢伏山まで尾根を縦走したことがあるが、その尾根には堀尾峠、忠峠(タラ坂)、稲葉坂、犬越峠などの峠が並んでいる。 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=16 かつてこの尾根のどこかを、ボッカのように薬師様を担いで越えた者が居たのだろうか。 そして薬師様はもともと、どこにおられたのだろうか。 このエントリーの情報◆郷土について 草尾峠を越えた人々 2010/08/27 1:00 am
■草尾峠は和知の草尾と瑞穂の水呑を結ぶとともに、横峠と連動した田辺街道の峠でもあった。
単なる村道でなく街道であっただけに、「草尾峠の昔の道でも一間(二メートル)は十分あるさかいな。」(『和知の古老談』)という立派な道である。 ただし現在は峠の北側直下を林道が通過しているのと、峠の鞍部だけは倒木に埋もれている。 峠には石の厨子があるが内部は空である。 ■和知町教育委員会『和知の道−むかし物語』(2002年)には草尾峠について、以下の記述がある。 「…草尾峠は須要な京街道として参勤交代の通行路であると共に、丹後方面の海産物等を京都に運ぶルートとしても重要であった。」(巻頭「解説」) 「草尾峠は、田辺(舞鶴)や山家藩主の参勤交代往還の道筋であり、また若狭・丹後地方の人々やその他旅人の往来も多かったところから、近代まで旅篭も一軒あり、集落もあった。また狼が盛んに出没して荷物を運ぶ牛が怖がるので目隠しをして通ったとか、好物の油揚げを一ヶ与えるとそれで温和しく引き下がったなどの話も聞いている。また、この峠道の維持・管理は、廣野・大簾・出野・稲次の四ヶ村がこれに当たり、各村の庄屋が広野村に集まって、管理の方法を協議したという。」(2頁) 「船戸橋から南側草尾峠までを京街道として旅人の主要道路であった。船戸から六〇〇米ほど峠に向い進んだところで道が分岐しており、「右くさを、左わち」と刻まれた道しるべの石が昔を語る唯一の資料であったが、いつの間にか何者かに持ち去られ残念なことである。分岐点から二〇〇米草尾に向かった地に又分岐点があり、その場所に宿屋もあった。(現西村正宏氏宅)旅人の宿泊やすらぎの場であった。又道の維持管理等を協議する集会所でもあった。峠の麓の草尾にかつて七戸の集落があり、最初の家、白波瀬家は旅人を休養させる宿でもあり、又戸長甚五郎氏は若くして製糸(手繰)を開業され、女工も峠越しに三ノ宮から通勤した話も耳にした。」(67頁) ■戦前、和知の片山善三郎は「片山生」の署名で、草尾峠に関する記事を『下和知時報』に寄稿した(昭和10年〜11年)。 「草尾峠は和知川に臨める廣野村より土師川の沿岸檜山村に通ずる藩政時代は山家や田邊の城主が江戸へ参勤交代のため通つた主要道路で高さ四七六米です且つ丹後の海産物を京都へ出す通路なので此峠を牛の背に海産物をつけて運搬する所謂牛追ひは當時農家経済には唯一の現金収入の方法であつたのです」 ……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行) と前置きしたうえで、伊能忠敬測量隊(厳密には永井支隊)、細川幽齋、鳥羽伏見の戦後の小浜藩兵、野田笛甫などの草尾峠通過について紹介している。 以下で片山に従って、それらの事例についてメモしておく。 ■伊能忠敬測量隊 「一、草尾峠と伊能忠敬、我國測量の元祖伊能忠敬は草尾峠を測量して居ります伊能忠敬の「沿海實測録」には左の通り記載してあります 従丹波國檜山歴宮津及峰山至久美濱 丹波國橋爪村檜山一里四町五十七間粟野村廣野村和智大川岸三里十一町六間(中略)熊野郡久美濱通計三十一里二十二町九間」 ……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行) 伊能忠敬とあるが上記のとおり厳密には永井支隊で、文化11年(1814)2月13日に草尾峠を越えたようである。「同十三日、朝曇天、終日微雨、六ツ時後、船井郡小出領、広野村出立、同村ノ追分、昨日打止ヒ印初、京街道測枝草尾、草尾川土橋一間半、野陣小休、字草尾峠、水野壱岐守領、川野二十郎知行所、……」 ……『和知町史第一巻』655頁に引く『測量日記』 ■細川幽齋・前田茂勝 「草尾峠と戦史、慶長五年關ヶ原の合戰に細川忠興は徳川家康に従つて東下る妻は大阪の邸に人質となつて殉死し、父細川幽齋(藤孝)は僅か五百人の手兵を以て田邊の舞鶴城に籠り大阪方より一萬五千を以て七月二十日より舞鶴城を囲み凡そ六十日關ヶ原の合戰に依り徳川方優勢となり九月十二日和睦して囲ひを解いたので九月十八日細川幽齋は手兵五百騎を引連れて田邊城を発し梅迫を経て横峠を越へて山家に出で廣野を通つて草尾峠を越へ當日檜山に宿泊しました(田邊城和睦志より)今より三百三十五年前即ち慶長五年九月十八日には細川幽齋は徳川方の勝利にて吾党の天下を謳歌して手兵五百騎を引き連れ得意になつて草尾峠を越へた事でせう、廣野田圃には九月九日の氏神祭をすませて稲刈に麦播きに百姓が物珍らしく見たことでせう。これが熊本五十四萬石の細川侯の先祖です。尚此年には前田茂勝大石甚助等の大将が草尾峠を越へて居ります。」 ……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行) 山家の「肥後橋」も、肥後に転封になった細川氏が架橋を援助したので肥後橋であるという話がある。 ■野田笛甫 「三、草尾峠と文人雅客、泉式部や小式部内待其他文人雅客の丹波丹後地方に遊んだのは多く草尾峠を越へず檜山より山陰街道へ行つて居ります、貝原益軒の西北紀行も第一日は鳥羽(吉富村)に泊り第二日は生野(天田郡上六人部村)に泊つて居りますから草尾峠は越へて居りません江戸の大儒者野田笛甫は草尾峠を越へて居りますが野田笛甫の詩集はまだ調へて居りませんが草尾峠に関する詩があるかと存じます。」 ……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行) 「野田笛甫 郷土研究その二で草尾峠を越へた名士に野田笛甫のあることを書きましたが野田笛甫は寛政十一年六月二十一日田邊(今の舞鶴)に生れ名は希一と云ひ江戸へ出て大學者となり又詩人として有名で安政四年田邊藩執政となつた人です、野田笛甫の著した「得泰船筆語」は今も上野帝國図書館にあります。野田笛甫は田邊から草尾峠を越へて何回も江戸へ往復したものです、田邊を出発して草尾峠を越へ檜山で泊るのが丁度一日の行程だつたので草尾峠を越へ檜山で宿つた時の詩があります 影鵑横雲雲行疾 雲行鵑横月未出 天寒投宿萬山間 布衣如水夜如年 屈惜十載猶道路 骨痩高於山客窓燈死風吹雨 驛外蕭々送馬語 宿檜山」 ……片山生「郷土研究(その六)草尾峠(のこり)」『下和知時報』第一百三十七號(昭和11年2月26日発行) 注:野田笛浦について http://www.city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d9a1e1113061c2/7d9a1e1113061c25.html ■小浜藩主・酒井忠氏と小浜藩兵(1868年) 「明治維新当時鳥羽伏見等の戦に傷いた侍が赤毛布を着て丹後や若狭へ帰るために多数通行したことは古老の話で耳新しいことです。」 ……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行) 「鳥羽伏見の役の時負傷した武士等が草尾峠を越へたと云ふ古老の話を前回書きましたが其時草尾峠を越えた武士は幕府方の若狭小浜藩の武士で草尾峠を越へて逃げて来たが山家藩のため撃退され上林谷を若狭小浜へ逃げて帰ったのです」 ……片山生「郷土研究(その六)草尾峠(のこり)」『下和知時報』第一百三十七號(昭和11年2月26日発行) 「鳥羽伏見の戦いがおこり、福井小浜藩の落武者多数が、草尾峠や大栗峠を越えて帰藩する」『和知の古老談』 この小浜藩の一件については「小浜藩兵士の上林通過1868」を参照。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=140 以上の伊能測量隊、細川幽齋、野田笛甫、酒井忠氏のいずれも、横峠(草尾峠とのセットで田辺街道を構成する)も越えているであろうことに留意しておきたい。 ■草尾峠の維持管理 以上の通過例のほか、片山は「草尾峠の維持管理」についても述べている。 「四、草尾峠の維持管理、峠の頂上から山家村境谷までの京街道は廣野村、出野村、稲次村、大簾村の四ヶ村の責任で、山家村境谷より草尾の宮までは廣野村が掃除し、草尾宮より水呑境までは出野村、稲次村、大簾村より出夫し廣野村より奉行が出て監督した、そして四ヶ村の庄屋は四ヶ村講とて一年一回づゝ集まつて草尾峠の維持管理の相談をしたものです、この制度は大正年間まで續いて居りました。」 ……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行) 上引のとおり和知町教育委員会『和知の道−むかし物語』にも 「この峠道の維持・管理は、廣野・大簾・出野・稲次の四ヶ村がこれに当たり、各村の庄屋が広野村に集まって、管理の方法を協議したという。」 との記述がある。 ■草尾峠越え、現代の例 「毎朝7時に二条駅で山陰線に乗り、立木駅からは歩いて草尾峠を越え、水呑へ。」 というのは松本経雄氏の経験談である。京都新聞に連載された記事から引いておく。 「毎朝7時に二条駅で山陰線に乗り、立木駅からは歩いて草尾峠を越え、水呑へ。40年以上前、不段寺住職だった芦田哲雄さんらが地域で養鶏を始めてからは、卵も買い付けるようになりました。…[略]…竹のかごにもみがらを敷き、横は新聞紙で覆って卵を入れました。卵を16貫(約60キロ)持ち、旅費を稼ぐために米2斗をかついで365日、村に通いました。鳥は毎日卵を産みますからね。荷物の重さに耐えかね、吐きそうになることもしばしばでした。」 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/tanba/102.html ■草尾峠を越えていない人々 上の片山記事に「泉式部や小式部内待其他文人雅客の丹波丹後地方に遊んだのは多く草尾峠を越へず檜山より山陰街道へ行つて居ります、貝原益軒の西北紀行も第一日は鳥羽(吉富村)に泊り第二日は生野(天田郡上六人部村)に泊つて居りますから草尾峠は越へて居りません」とあった。 このほか、「日本九峯修行日記」の野田泉光院は、美山から由良川沿いに和知を経て山家に入っているから、草尾峠は越えていないようだ。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=31 また建田の金比羅さんの三義人の話は、歴史的事実自体が不明であるが、諸書をみると稲葉坂を越えたあとなぜか大簾に行ったことになっている。つまり由良川を遡るのでなくそうとう由良川を下ってしまっている。これは道に迷ったとしても江戸行きという目的に照らして逆行しすぎているから、稲葉坂でなく犬越峠から鉢伏山の東面を経て坂原に出たのではないかという思いもある。そのあと、大簾から水呑峠を越えたという(『和知の道−むかし物語』)。この水呑峠というのは今の国土地理院の地図に七谷峠と記されている峠で、草尾峠のひとつ西の峠だから、三義人は草尾峠は越えていないことになる。 「旅費は於与岐村の吉崎五左衛門に出してもらい、三人は蓑笠の百姓姿で夜半ひそかに村を出発して山越えで和知に向かった。ところが広野村で道に迷い、草尾峠を越えるべきところを大簾村へ迷い込んでしまった。このいきさつを聞いた時の大簾村庄屋東藤右ヱ門はこの三人の義心に感じ、大焚火をして暖を採らせ、旅装を整えさせ握り飯を用意するなどした後、自ら松明をともして水呑峠へと案内し、前途の成功を祈って送り出した。」 ……『和知の道−むかし物語』64頁 ■草尾について 『和知の古老談』に、 「草尾峠あたりでも見たりするのに−まあこれは私見やけど、和知に住んどった祖先いうようなもんは、まあ塩瀬でも草尾でも粟ン谷でも大成でも、兎に角、山奥の高いとこに住いを作ったもんじゃろうと思いますわな。それから、序々に序々に下の方へ下ってきて田んぼを拓いたり、川添いのよい場所に暮らすようになったんやと思います。」 とある。 草尾の集落跡は標高150〜200mの間にあるがその上流、標高300m附近まで、谷底には石垣で区切られた細かい水田跡が残っている。 『和知の道−むかし物語』に「草尾にかつて七戸の集落があり」とあるが、坂口慶治「丹波高地東部における廃村化と耕地荒廃の過程」『地理学評論』47(1)1974によると、草尾は「明治初期には8戸を数えた」。 坂口1974によるとその後の経過は以下のようである。 1889年……一戸が廃絶(→戸数7戸) 1921年……一戸が広野に移転(→戸数6戸) 1943年……一戸が京都市に移転(→戸数5戸) 1946年……一戸が京都市に移転(→戸数4戸) 1950年……一戸が和知駅前に移転(→戸数3戸) 1951年……一戸が廃絶(→戸数2戸) 1966年……二戸が離村し町営住宅に移転(→廃村) □で戸数を示すと大体以下のようになるはずである。 1888□□□□□□□□ 1889□□□□□□□ 1890□□□□□□□ 1891□□□□□□□ 1892□□□□□□□ 1893□□□□□□□ 1894□□□□□□□ 1895□□□□□□□ 1896□□□□□□□ 1897□□□□□□□ 1898□□□□□□□ 1899□□□□□□□ 1900□□□□□□□ 1901□□□□□□□ 1902□□□□□□□ 1903□□□□□□□ 1904□□□□□□□ 1905□□□□□□□ 1906□□□□□□□ 1907□□□□□□□ 1908□□□□□□□ 1909□□□□□□□ 1910□□□□□□□ 1911□□□□□□□ 1912□□□□□□□ 1913□□□□□□□ 1914□□□□□□□ 1915□□□□□□□ 1916□□□□□□□ 1917□□□□□□□ 1918□□□□□□□ 1919□□□□□□□ 1920□□□□□□□ 1921□□□□□□ 1922□□□□□□ 1923□□□□□□ 1924□□□□□□ 1925□□□□□□ 1926□□□□□□ 1927□□□□□□ 1928□□□□□□ 1929□□□□□□ 1930□□□□□□ 1931□□□□□□ 1932□□□□□□ 1933□□□□□□ 1934□□□□□□ 1935□□□□□□ 1936□□□□□□ 1937□□□□□□ 1938□□□□□□ 1939□□□□□□ 1940□□□□□□ 1941□□□□□□ 1942□□□□□□ 1943□□□□□ 1944□□□□□ 1945□□□□□ 1946□□□□ 1947□□□□ 1948□□□□ 1949□□□□ 1950□□□ 1951□□ 1952□□ 1953□□ 1954□□ 1955□□ 1956□□ 1957□□ 1958□□ 1959□□ 1960□□ 1961 ■道標について 和知には「右くさを左わち」という道標があった。この道標は、 「今、綾部のどこや料理屋へ行っとるわ」 ……和知町教育委員会発行『和知の古老談』[1987]53頁 「現在は、綾部市内某旅館の庭に眠っている」 ……和知町教育委員会『和知の道−むかし物語』[2002]66〜67頁 とのことである。『和知の道−むかし物語』や『和知町史第一巻』にはこの道標の写真が掲載されている。経緯の如何にかかわらず、綾部から和知に返却したほうがよいのではないだろうか。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=128 このエントリーの情報◆郷土について 残っていた炭焼窯 2010/08/19 11:00 pm
■炭焼窯の跡を見ることは少なくないが、基本的には崩落して窪地となり原型をとどめていない
綾部市戸奈瀬町にあるこの炭焼窯は原型をとどめている 内部には作りかけの炭も残っている ■戸奈瀬と釜輪町奥山とを結ぶ峠の道は街道の古道なみであり 深く掘られた一間幅の道が尾根を刻んでいる 峠には小さな石仏がある 道幅に対応したトラフィックがあったのだろうか 内田嘉弘『京都丹波の山(下)』ナカニシヤ出版(1997年)98頁に、 「よく踏まれた昔の道がこの峠を跨いでいて、戸奈瀬町側のマツの根っこの窪みにお地蔵さんが一体祀ってあった。」 と書いてある峠である http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351731&l=1352057 ■この峠の南、市境のピーク530メートル附近の尾根にも一間幅の立派な古道が残っており 戸奈瀬一帯の山に人間生活の痕跡が深く刻まれていることを教えてくれる 『山家史誌』(1987年)に 「兎に角昔は尾根伝いに往き来していたらしく越前から甲ヶ峯まで尾根伝いで来られるという。水梨に徳左衛門屋敷・新治屋敷という地名が残り、火の谷に屋敷の本という地名が残っている。山から段々と降ってき来た様も伺われ…」(437頁) とあることが思い出される この附近の尾根は萱山であったらしい 和知町教育委員会発行『和知の古老談』(1987)に以下の会話がある 「K わしらが上りよった時にはナ、そんな植林どま何にもあらへん。山焼きをずっとやりよったさかいな。学校から早うもどって見とってもナ、夜さりでもずうっと山が焼けていくんがよう見えよった。ほんで、その頃は猪なんちゅうもんは全然おらなんだな。昔は山焼きいうのが仕事やったんもんでナ。 O その後、山畑などにも使ったんですか。 P 昔はもう、山焼かんなんいうのが一年中のもっとも大行事やったんやな。ほいて、夏は柴草刈りが仕事やったんやナ。田んぼに肥草に入れるんが百姓の大仕事やったもんやで。 Q 才原でも、前は奥山全部焼いとったんやナ。山でも木のあるようなとこは一つもなかったなあ。よっぽど気のある人が、ちいと植林しとっただけでなあ。わしらが覚えてからでもUはんら草刈りきばってしよっちゃった。うちの親爺らの頃は、ばんげは遊び回っといて一目も寝んと、その足で山へ草刈りに行くんが仕事やったそうな。」 (引用中:人名はアルファベットに直した) 陸地測量部二万分一地形図「山家」(明治26年測図)において、この和知と山家の境界尾根の奥山付近は、広葉樹林でも針葉樹林でもなく、草地の記号が描画されている これは『和知の古老談』の「才原でも、前は奥山全部焼いとったんやナ」と符合すると思われる ピーク530メートル附近の尾根にある一間幅の立派な古道 それは萱山や草山との関わりがあるのかもしれない このエントリーの情報◆郷土について 深山の滝(武吉) 2010/06/30 12:00 am
『丹波志何鹿郡部』の「深山ニ古跡 字ニ大御堂小御堂ト云所ニ七堂伽藍 五丈斗滝アリ」を見て以降、山中に人知れず蕭々と流れ落ちる滝の心象は忘れがたいものとなった
ひとつずつ谷々に分け入って調べていくなかで、空中写真の中にそれらしい段差を見いだした 水量が多くないゆえに必ずしも当初から第一候補とはしていなかった谷 そこに滝はあった http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=32 S.V.Rachmaninov, Prelude in D Op.23-4 このエントリーの情報◆郷土について 蓮ヶ峯の尾根に湧く水 2010/06/20 7:30 am
椿の揺れる尾根に廃寺跡(推定)があった
尾根を削平した断面から水がしたたり 小さな池を形成していた タルコフスキーの水 水があるから寺が立地したのか 寺を立地させたから水が湧出したのか 谷でなく尾根に水のあるこの地点では今も人知れず 樹々が水面に影をうつし 水流の中で椿の落花がゆれているのだった S.V.Rachmaninov, Morceaux de Fantaisie, Elegie このエントリーの情報◆郷土について 八反滝(早稲谷) 2010/06/10 10:00 pm
地図を見ていると早稲谷の奥に、独特な庇(ひさし)状の地形があることに気づいた
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352211&l=1353042 綾部と美山の境のピーク810メートル付近に発した谷は 細谷の右岸の上を雨樋や庇のように並行して走り 標高500メートル付近で鉤型に曲がって落ちる 空中写真をみるとその庇状の様子がより判然としていた http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-7/c5a/ckk-75-7_c5a_4.jpg http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-7/c5a/ckk-75-7_c5a_5.jpg ここには斜めの滝があるに違いないと思えた 一方で、早稲谷の奥に八反滝のあることが知られている その場所は必ずしも地図上で明示されたものをしばしば目にするわけではなかった 冒頭の庇状の地形の端にある滝と八反滝との関係はどうだろうか 現地確認の結果、やはりこれが八反滝であった 『丹波志何鹿郡部』勝地之部に「八端滝 布八端ノ丈成 名高滝ト云」(綾部史談会半76頁)とある このエントリーの情報◆郷土について 美山の雄滝 2010/06/01 5:30 pm
京都府美山町の雄滝
八ヶ峯や知井坂の西、権現谷の奥にある 動画画面右下の黒い▲で解像度の変更ができますので ブロードバンド環境であれば解像度を上げてください またその右、▲と△の間にある×字ボタンで動画を全画面表示できます このエントリーの情報◆郷土について 野鹿の滝 2010/05/26 10:20 pm
野鹿(のか)の滝
福井県名田庄村野鹿谷 頭巾山に連なる野鹿谷は木地屋の谷でもある 周辺には小松、谷口などの廃村があり かつては上流の片又谷、尼木谷にも民家があった 動画画面右下の黒い▲で解像度の変更ができますので ブロードバンド環境であれば解像度を上げてください またその右、▲と△の間にある×字ボタンで動画を全画面表示できます このエントリーの情報◆郷土について 風土史ノート(2) 2010/04/17 1:30 am
前回、気候の変化や火山噴火の影響について言及したがその後、寒暖の差の大きさとその農作物への影響が問題となり、アイスランドでは火山が噴火した。後者は1783年のアイスランドのラーキ火山の噴火(桜井邦朋『夏が来なかった時代』吉川弘文館、2003年、94頁)を思い出させた。
(大般若経に残された風土史情報) 京北町弓削の朝日山の山中に朝日寺の跡がある。山麓にある普門院の大般若経は、もともと朝日寺にあったようである(京都府立丹後郷土資料館『丹波・丹後の大般若経』30〜31頁)。 この普門院(朝日寺)の大般若経の書込みには織田信長の比叡山焼き討ち(1571年)のことのほか、大地震や疫病、大雪などの情報が含まれている(『丹波・丹後の大般若経』)。 疫病に関しては、「天文九」年(1540)のこととして、「天下太病天文庚子ノ春比、凡ソ八分ハカリモ人民死ス、[略]当庄人三百人斗死ス乞」とある。300人で8分としたら総人口は400人弱と解してよいのだろうか? 大雪に関しては、「天正二年」(1574)のこととして、「天正二年甲戌正月廿三日ノ夜大雪降ル、ヲヨソ四尺斗ト各令申也、前代未聞無事ト申云云」とある。四尺なので1メートル以上だろう。 地震に関しては、「天文七年」(1538)のこととして、「天文七年戊戌正月廿日巳尅大地震云云、天下不思議已而」とある。 古代・中世地震・噴火史料データベースで天文七年正月廿日の地震について確認してみると、「御湯殿上日記」の同日の記述に「ちしんおひたゝしくゆる」とあり、朝日寺の大般若経の書き込みと合致している。 http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/ このように大般若経の書込みから、気候や疫病や地震に関する情報、ここでいう広い意味での風土史に関する情報が得られることもある。 あるいは野田泉光院の「日本九峯修行日記」は、「晴天」「曇天」「雨天」「雪天」のように毎日の天候を記録している。 修行僧の旅日記であり、定点観測ではなく各地を移動しながらであるが、当時の天候の記録としても見ることができる。 (リンク) 歴史天候データベース http://hwdb.yamanashi.ac.jp (「丹波国地震三日」と噴砂) 『続日本紀』の大宝元年(701)年3月26日のところに「丹波国地震三日」とある。 丹波と丹後が分離されたのは和銅6年(713)であるので、これは丹波と丹後の分離前であり、丹後の範囲を含むのかもしれない。 「丹波国地震三日」とあるだけなので詳細は不明である。「三日」というのは余震を伴うものだったのだろうか。 松田時彦「古地震研究における自然資料と歴史資料の関わり」地学雑誌Vol.108,No.4は、萩原尊禮編著『古地震』を紹介するかたちで、 「『続日本紀』には被害の記述はなく、また都(藤原京)で有感の記述もないので、この『続日本紀』が記した大宝元年の丹波の地震は、丹波国内陸に震央をもつ中規模な局発的な地震であったと推定されている(萩原、1982)」 とまとめている。 http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jgeography1889&cdvol=108&noissue=4&startpage=370&lang=ja&from=jnltoc また「丹後風土記残欠」ではこの大宝元年の丹波の地震で日本海が沈降して舞鶴湾の冠島と沓島ができたことになっているが、冠島と沓島の周辺の地学的事実と整合性がなく、疑わしい(松田、同)。 綾部の青野西遺跡では地震による噴砂の遺構が発見された。 「砂脈は古墳時代前期頃の竪穴式住居とその埋土を引き裂き、平安時代の住居の柱穴は砂脈を貫いていた」(寒川旭『地震の日本史』中公新書2007年、41頁) から、噴砂を起こした地震の発生は古墳時代前期と平安時代との間となる。 また舞鶴の志高遺跡の砂脈は 「弥生時代から奈良時代はじめにかけての地層をすべて引き裂き、奈良時代後半の地層に覆われていた」(寒川、同、41頁) から、その原因である地震は奈良時代はじめと奈良時代後半の間である。 『地震の日本史』は 「これらの痕跡は奈良時代で八世紀の年代となり、『続日本紀』に書かれた七〇一年の地震の頃に、京都府北部が激しく揺れたことがわかる」(寒川、同、41頁) とまとめている。 青野や志高で検出された砂脈が、『続日本紀』にいう大宝元年の「丹波国地震三日」と大差ない時期のものであるとして、本当に大宝元年の「丹波国地震三日」によって引き起こされたものであるかどうかは、『地震の日本史』も断定していないし、そうであるかそうでないかは不明といったところだろう。 『綾部市文化財調査報告 第16集』(綾部市教育委員会1989年)では、「その他今回の調査[青野西遺跡第3次調査]において検出されたものとして、地震による噴砂の痕跡がある」「噴砂は地山下層の砂礫層から幅1m高さ1mにわたって噴出している」「これらの噴砂は、第4次調査においても検出されており、その調査結果や古記録等から、8世紀初頭(大宝年間)と推定されている」(68頁)としている。 この「古記録」「8世紀初頭(大宝年間)」というのが、『続日本紀』大宝元年(701)年3月26日の「丹波国地震三日」のことだろう。地震は何度も発生するものだから、青野西遺跡の噴砂を起こした地震の発生が古墳時代前期と平安時代との間だとして、それを大宝年間にまで絞り込めるのか知りたい。 ちなみに上林川断層の活動間隔は特定されていない。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=27 噴砂の痕跡がその解明に役立てばよいが、青野や志高の液状化が上林川断層の活動によって起きたかどうか自体不明であり、明確な関連付けには至らないだろう。 ただいつの時代のものであれ、由良川の沖積平野で地震による噴砂の痕跡があることは確かだから、今後も大規模な地震が起きれば、それに伴って噴砂・液状化も起きうるというのは考えておかねばないことだろう。 このエントリーの情報◆郷土について 綾部の風土史ノート 2010/03/31 11:30 pm
(1)聖楽上人の雨乞と嶽の弁天
雨が足りないとき古人は降雨を天に祈ったので、雨乞いの情報は少なくない(『綾部市史上巻』467頁以下)。『丹波志何鹿郡部』にも「アマゴイヶ嶽」という山の名前が複数、出てくる。 すでに何度か触れてきたことだが、正暦寺の名前は聖楽上人の雨乞にちなむという話がある。 『綾部市史上巻』に「正暦寺と雨乞」という節があり、「寺伝によると正暦二年(九九一)、天下は旱天がうちつづき人民は苦しんだので、聖楽上人が雨を天に祈ったところ、験あってにわかに降雨があった。時の天皇がこれを聞かれてその功を賞し、年号の正暦を寺号に与えられ、勅願寺に準ぜられたという。こうした由緒があってか、九鬼藩では雨乞の祈祷を正暦寺で行うことにしていた」(綾部市史上巻132頁)という。 『綾部町史』にも、 「那智山鏡智院と号す。藩記に、観音堂古来田野村霊山に有之、然るを須知山へ移す。今其の所中ノ堂という、其後此所へ移すよし。三山を表して北に本宮新宮の名あり。東に川の流れかさねの滝あり。とある。由緒は天慶年間空也上人の開基にして、須知山頂上霊山に観音堂を創建したのに始り、後中興開基聖楽上人須知山の大岩口の中ノ堂に移し、七堂伽藍全備の密教弘通の道場となった。寺伝によれば正暦二年旱魃打続き、人民の苦しみ甚しかつたので、聖楽上人は雨を天に祈つたところ、忽ち霊験あり、沛然として降雨があつたという。即ち朝廷これを聞召し、特に功を賞して年号を寺号に賜ひ、須知山正暦寺と改め、勅願寺に準ぜられた。この由緒から江戸時代まで雨乞の祈祷を以て有名であつた。」(247〜248頁) とある。 聖楽上人は寺院を霊山から中ノ堂に移したという。雨乞いはこの聖楽上人のときだから、雨乞いのころ寺は中ノ堂にあったのだろう。 この「旱天がうちつづき」(市史)「旱魃打続き」(町史)ということは、「天下」のことであって綾部だけのことではなかろう。 『京都歴史災害研究』誌に「京都歴史災害年表」があり、正暦2年の旱魃を示す文書を多く収録している。 http://rits-dmuch.jp/rekishisaigai/ http://rits-dmuch.jp/rekishisaigai/6go.html すなわち『日本紀略』に 「自今日二七日間、依旱魃、於神泉苑修請雨経法」「奉幣丹貴二社、依祈雨也」「依旱魃、山城国紀伊郡、葛野郡愁申神泉水、及令堀下之」「依祈雨、発遣山陵使、於大極殿転読大般若経、請僧百口」「今月旱魃」 などとあり、 『祈雨日記』に 「五、六両月、大旱魃、…於神泉、祈雨、雨不降云々」「五、六両月、大旱魃、元真内供、於神泉苑祈雨、雨不降云々、」「五六両月大旱魃、…於神泉祈雨雨不降云々」 などとあり、 『北院御室日次記二』に 「始従今日二七ケ日間、於神泉苑…修請雨経法事」 とあり、 『二十二社註式』に 「炎天送日、万物変色、依之、…祈雨奉幣時、加吉田・広田・北野以下三社、被奉献官幣十九社」 とあるらしい。 ……以上、日本紀略や祈雨日記などの原著でなく「京都歴史災害年表」から再引した。 このように複数の情報源が正暦2年の旱魃を記録しているから、正暦2年の旱魃の存在は確かであるように思える。 ここで、志賀の嶽(だけ)にある弁天も、正暦2年に創建されたらしいことが想起される。 すなわち『丹後國加佐郡町村誌』に 「市杵嶋姫神社 社地東西十二間五分南北七間五分面積四十坪村ノ東方字嶽ニアリ市杵嶋姫命ヲ祭ル傳云正暦二年辛卯ノ創立ナリ祭日七月廿日」 とある。 弁天は水の神で、正暦2年の旱魃と「正暦二年辛卯ノ創立ナリ祭日七月廿日」とは関係あるように思える。 またこの『丹後國加佐郡町村誌』には 「古跡 廃寺址 村ノ東方字嶽ニアリ土人云正暦ノ頃此地ニ龍尾寺ト云巨刹アリシト今尚礎石ヲ存ス」 ともあって、「龍尾寺ト云巨刹」も正暦という時代と関係あるらしいことが察せられる。 以前、志賀の嶽と聖楽上人との関係を無理して考えたことがあったが、聖楽上人でなくてもよい。要は正暦の頃に志賀の嶽でも干天に関係して何かあったのではないかということがいいたい。 9世紀〜13世紀は、相対的に温暖な時代であった。中世の大温暖期(Grand Medieval Maximum)ともいう。 この頃、温暖なため桜も早く咲いたらしく、「9世紀と10世紀の春は暖かく早くきた」(吉野正敏「歴史時代の気候変動に関する研究の展望」『地学雑誌』116-6、2007年)という。 http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf116-6/p836-850.pdf 正暦2年の旱魃と「中世の大温暖期」との関係だが、ただちに直結するかはわからないが、少なくとも大温暖期のもとでの旱魃ということは、矛盾はないだろうと思える。 干天や雨乞いは中世に限ったことではないが、聖楽上人の雨乞いの当時、「中世の大温暖期」という状況のもとで、旱魃が多発する傾向にあったのではないか、正暦2年の旱魃はそのうちのひとつだったのではないかと考えるわけである。そして鏡智院には正暦寺という名前が与えられ、志賀の嶽には弁天ができた、と……。 ブライアン・フェイガン『千年前の人類を襲った大温暖化−文明を崩壊させた気候大変動』(河出書房新社、2008年)という本もある。 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309252254 蓋然性や文脈の問題ではあるが、単発の旱魃でなく、中世の大温暖期という文脈のもとで考えられないかということである。 (2)小氷期と建田の金比羅さん 「中世の大温暖期」のあと、14世紀から19世紀は相対的に寒冷になった。小氷期ともいう。 このうち、1645頃〜1715頃に太陽活動が活発でなくなった(黒点の減少など)時期があり、マウンダー極小期という。 太陽のマウンダー極小期と地球の気候との因果関係は断言できない(朝日新聞2010年3月20日記事「太陽まもなく「冬眠」」)が、マウンダー極小期には地表の寒冷化もはげしく、ロンドンのテムズ河が長期間氷結するなどの現象が見られた。 前島郁雄「歴史時代の気候復元−特に小氷期の気候について−」『地学雑誌』93-7、1984年は、1690年頃〜1740年頃を元禄・宝永小氷期と表現し、特に1690年頃〜1720年頃は「非常に寒冷」だったと表現している(前島1984、第2表)。 ここで、上林の建田の金比羅さんは「宝永講」とも呼ばれ、宝永年間に忠・佃・武吉の住民が幕府に直訴したことにその由緒があるということになっている。 『綾部市史上巻』は「江戸時代にこの地は旗本藤懸領であった。宝永の頃たび重なる水害にあい、農民は苦しみあえいでいたが、代官は年貢の減免を行わずきびしくとりたてた。この暴政を幕府に直接訴えようと、三人が死を覚悟して江戸に向かうことになった」(629頁)と説明している。 前島1984によると「降水頻度は冬、夏ともに平均気温と逆相関を示す」。そして前島の示すグラフを見ると宝永の頃は低温多雨であったようである。 そのことと、綾部市史の「宝永の頃たび重なる水害にあい」は、少なくとも矛盾はしないように思われる。 ここでは 「元禄・宝永小氷期」⇒宝永の直訴⇒建田の金比羅さん(宝永講) のような因果関係を考えるわけである。 さらには 太陽活動のマウンダー極小期⇒「元禄・宝永小氷期」 のような関係があるかもしれないが不明である。 もちろん建田の金比羅さんの由緒をめぐる事実関係自体、不明なことが多いし、まして上記の因果推定には何重もの飛躍を含んでいる可能性もある。綾部市史に「暴政」とあるように、自然的条件と社会的条件との両方があることは当然である。 ただ江戸時代の飢饉や一揆の背景事情として、小氷期という文脈を念頭においておくことには意味があるように思われる。 宝永四年には大雨があり(何鹿の歳時記)、宝永の大地震や富士山の宝永噴火もこの年に起きた。一方宝永五年には大旱があったとの話もある(丹波史年表)。不安定な時代であったことは察せられる。 元禄・宝永小氷期のあと、18世紀半ばは寒冷化の傾向がやや緩んだが(前島1984の「小間氷期」)、18世紀末には再び寒冷化が進行した。 天明3年(1783)には浅間山が噴火した。 役所日記抜書には以下のようにある。 「七月江府表ヨリ御飛脚着 去ル六日七日八日江戸鳴動灰降り屋根ナドも白く成候程之由 信州浅間山大焼ニて伊丹様御知行所ナドハ人馬陥死四五十村ハ成行不相知候趣申来候」(役所日記抜書、天明三癸卯年、綾部市史史料編、358頁) 浅間山の噴出物は上空に漂って世界的な天候不順に一役買った(桜井邦朋『夏が来なかった時代』吉川弘文館、2003年、87頁、192頁)。フランス革命が起きたのは1789年であったがその頃は寒冷化のもとで農業も不振であった。気候はフランス革命の原因のすべてではないとしても前提条件として念頭においておかねばならない。 (3)風土史 三澤勝衛は彼自身の用語としての「風土」について、 「大気の底面と大地の表面が触れ合っている、その触れ合っているところはもはや大地でもなく大気でもない、触れ合った面、独立した接触面です。それを私は風土と呼んでいるのです」 「風土というのは、気候でもなければ土質でもない、両者の触れ合ったものです」 として、風土は大気と大地の「化合物」であるとした。(農文協版『三澤勝衛著作集』第三巻、2008年、32頁以下)。 地形や気象の相互作用によって「風土」は機微な違いを見せるので、細かいレベルでは一枚の畑の中ですら、位置が違えば風土が異なる(同40頁以下)。適地適作、適地適業であるべきであって、農村振興をうたいながら「風土が織り込まれていない」のは大きな問題である(同45頁)。 三澤がいうように風土は場所によって異なっており、人が生きる環境を形成しているわけであるが、ここで思うに風土は空間的に異なるだけでなく時間的にも異なるのではないか。 たとえば気候も地形も一定でなく歴史的に変化するものであるので、風土も「年々歳々相似たり」でなくダイナミックに変化してきたのではないかと考えるわけである。 すでに環境史とか環境歴史学という分野がある。 たとえば三月末の今は梅も盛りをすぎ、桜の兆しが随所であらわれている。 花の開花時期は気候の変化を敏感に反映するから、花、たとえば桜の開花時期を古文書からデータ化していけば、大局的な気候変動の傾向がわかるだろう。 マウンダー極小期(上述)には、寒冷化のため京都御所の桜の開花時期が遅くなったという(桜井邦朋『地球環境をつくる太陽』地人書館1990年、141頁、同『夏が来なかった時代』吉川弘文館、2003年、17頁)。 あるいは昔人の日記から晴や雨などの天候を拾っていくことも古気候の復元に役立つだろう。 これらは古記録からの気候復元の一例である。気候は特に農業に関係するので歴史への影響がわかりやすいが、他に地震や火山噴火、河川の流路や海岸線の変化、疫病、害虫なども人間の歴史と関係していると考えられる。自然環境というわけではないが「人口」も、個人の力を超えた影響を歴史に対してもたらすものである。 環境史や環境歴史学は自然環境と人間との関係史と考えてよいだろうが、環境法学や環境経済学というと、環境問題に焦点がある。従って環境歴史学というと環境問題の歴史学という感じを与えるようにも思うので、ここでは風土史と呼べないかと考えている。もちろん自然環境と人間との関係史は、環境問題の歴史と無関係でなくそれを包括するものであって、結局は広い意味での環境問題であるが、ここでは郷土史について考えるという文脈において、郷土の風土の変遷やそれと人々の生活との相互作用をここでは仮に風土史と呼んでおきたい。 社会や政治や経済は歴史を動かすだろうが、それ以外に自然環境も歴史を動かすだろうということである。 自然環境は人間にとって不可抗力であることが多いので自由意志論との相性の問題があり、決定論ではないかといわれやすい面がある。しかし人間がシステム(自然環境や社会)のもとで生きているのは確かであり個人を超えたものはある。一方で産業革命以降の人口爆発や資源消費、温室効果ガスのように人間活動が自然環境に不可逆的な影響を与えている面もある。個人と社会、社会と自然環境、それぞれの相互作用に注意を払わねばならない。 以上、例によって蛮勇にまかせ、郷土の風土史について思うところの断片をメモ程度に記した。 このエントリーの情報◆郷土について 2009年のMyあやべ 2009/12/29 11:42 pm
一年前に「乾坤含創痍」(天地が満身創痍)と書いた感じは変わらず、世界は前途多難であるが、そのなかでも出来る範囲からと考えて少しずつ進むほかない。
ここ一年で印象的であったことをいくつか記す。『丹波志何鹿郡部』に記された「サントラ山」(綾部史談会版83頁)は、別の箇所では「サントウ山」(76頁)となっている。しかし「三俵山」(83頁)とも表記されており、『郷土誌青郷』のいうように俵の部品である「さんだわら」(さんどら)と解釈することで、「サントウ山」でなく「サントラ山」が正しいだろうと考えることが可能になった。すなわち当時のことだから濁点を表記していないが、実際には「サンドラ山」であっただろうと解釈するわけである。 「サントラ山ハ俵積し如 丸石ありて一俵宛の如 是ヲサントラ岩と云」(83頁)という「サントラ岩」も「さんだわら岩」であり、市茅野の奥の山に実際に「俵積し如」の岩があった。その実体は柱状節理であった。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352700&l=1352844 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=158 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=22 この「サントラ山」のことを『丹波志何鹿郡部』では「イモリケ嶽」(83頁)とも書いている。 これは『若狭國志』に「生守[イモリ]山 在関屋村以南山巓有巌窟山腹有巨石土人称苞[タハラ]石形若積穀苞然矣」といい、『郷土誌青郷』に「生守山(猪森岳)」といい、『大飯郡誌』に「猪ノ森岳(生守山)」という、その「生守山」と等しいのだろう。 一方で、桜井帯刀「廃村の村『上津、大田和』について」『若越郷土研究』11-3、1966は、関屋の奥に廃村生守(旧生守村跡)があったことを記している。 ・関屋の奥の生守山。 ・関屋の奥の生守村。 この二つが関係ないとは考えがたく、生守村の所在を探してはいるが、許波伎神社の所在と同様、辛酸佳境に入っている。関屋川の源流部と考えるのがひとつの仮定であるが、最終的には地元関屋における伝承を頼りとするほかないのだろう。 志賀の「嶽」の山上にはかつて瀧蔵山光明寺(金剛寺)という寺があった。「龍尾寺」という情報もある。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352340&l=1351337 http://eyevio.jp/movie/291115 弁天(市杵嶋姫神社)もあり、その創立は正暦二年ということになっているが、正暦寺にまつわる伝承によると正暦二年には旱害があったようである。 http://rits-dmuch.jp/rekishisaigai/pdf/6go/6_2_2_900.pdf#page=28 正暦寺の付近だけに旱害があったということは考えにくく、広範囲での旱害だっただろうから、弁天の創立も旱害と関係ないのかということを考えている。関連して、「嶽」の山上に最近まで人が住んでいたという情報が出てきたのも印象的なことであった。 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=26 このほかにも山上の廃寺を意識して訪ねた。立体的、といっても現時点では単に文字通り空間的に上にあったということだけだが、このことを考えていくことで立体的に物事を考えられないかと思っている。 http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/niki/yamanotera/importance.html 若狭川上にある寳尾の一乗寺は有名であり、大規模な地滑りの上に立地している。「だいら」(平地)の多い山であり、寳尾というのはだいらお(平尾)に吉字を宛てたものではないかと妄想している。その山の裏側の大田和には大寶寺があった。大田和の村落からはいくつかの尾根が伸びているが、その尾根のひとつに、大寶寺跡としか思えない遺構が眠っていた。 http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=27 若狭では青葉山の北麓にも「ヤマノエ山」という廃寺伝承がある(高浜町郷土資料館『青葉山麓のみほとけたち−里の祈りと仏−』1998年)。 上記の正暦寺や井根の日圓寺もそうであるが、市内各地の寺院について、昔はもっと上にあったという話は事欠かない(『丹波志何鹿郡部』寺院ノ部、古跡陵墓部)。しかしその立地点は自明でない場合が多い。現在の日圓寺は上林川支流の段丘上にあるが、一般に山上の寺院は地滑り地形を利用している場合が少なくないということはいえるかもしれない。 『丹波志何鹿郡部』に大畠町の瑠璃寺は昔「城山ノ根」にあったといい、その地点を「宝堂屋敷」というと記している。すなわち「当寺往古ハ城山ノ根ニアリ 古跡宝堂屋敷ト云」(綾部史談会版24頁)。同町内には「寺尾」という小字もあるが、「宝堂屋敷」の場所は現時点では不明である。 五泉町で経塚が確認されたことがあるが、複数の経塚群の一つではないか、また寺院の立地とは別の経塚だけの経塚であったのかは気になるところである。 後藤建一『大知波峠廃寺跡』(同成社2007年)は、「大知波峠廃寺のような山中の遺跡調査は、これまで断片的あるいは偶発的に行われてきたにすぎず、その保護保存ともなると山城がその代表とされ、地域信仰に深く関わる山間の寺院などの信仰遺跡は等閑に付されてきた観がある。それは、この種の研究蓄積が著名な寺院や特別な名山にかたより、普遍的に存在した地域の寺院遺跡や里山の信仰世界とつながってこなかったからである。考古学においても、仏教遺跡や信仰遺跡の調査研究には長年の蓄積があるものの、発掘調査が増大するにしたがいこれまでの研究蓄積では把握が困難な遺跡も検出されてきた。本書の大知波峠廃寺を例にとれば、瓦の出土しない寺院遺跡が相次いで発見されてきたのである。寺院遺跡に瓦がともなうという前提はもはや通用しなくなり、遺構・遺物の存在形態に規定されるようになった。今日、寺院遺跡を認定する方法は確立途上にあるといってよい」とする(191〜192頁)。 このことが綾部の状況に対してあてはまるか不明であるが、少なくとも古墳や山城に比較すると山林寺院の立地点が遺跡地図の類に系統的に記載されているということはないようであり、場所の特定は容易でない。地元では知る人ぞ知るということもあるだろうが、そうした伝承もおそらく風前の灯であり、早めに基礎データが整理され、適宜発掘調査も行なわれることが望ましいと考える。隣の福知山市が行なっているように、遺跡地図をWEB化することはアップデートを容易にする一つの行き方である。 http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/webgis/WebGis.htm 小畑の天王寺は『丹波志何鹿郡部』に「当時往古ハ村奥ノ山ノ字ニ天王寺ケ尾ト云所大寺在 空也上人開基トモ云伝 大破シテ暫後今ノ所ニ引移 古跡字天王寺堂屋敷毘沙門屋敷ト云」(29頁)とある。今の三角点宗谷(286m)の麓から中腹にかけて道があり、「毘沙門」「天王寺ヶ尾」の地名が尾根に残っている。三角点宗谷の東南、標高190m付近に10m四方程度の削平された平坦地がある。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352100&l=1351050 また「金屋山神宮寺古跡」(同63頁)にいう薬師堂は今は麓の民家横にある。 鍛治屋町には「寺内池」という名の池があり、その北岸に大日寺の跡がある。何段階かに削平された平地であり現在は植林されている。『丹波志何鹿郡部』では普門院について「当寺往古ハ小西村城ノ北彼谷有リ 落城ノ後今ノ在中ノ西エ引 古跡字ニ大日三ノ宮ト云」(29頁)とある。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352012&l=1351141 山上の廃寺は市外にも多いが、ここでは美山町の聞法寺、京北町の荒倉寺と朝日寺について記しておく。荒倉寺と朝日寺については京都市文化市民局『京都市内遺跡分布調査報告平成17年度』に記載がある。 (聞法寺) 美山町河内谷の東方、標高500メートルの地滑り地形上にある。『京都府遺跡地図』に記された聞法寺の場所は正しくない。門坊寺や梵寶寺などの表記を見ることもあり、寺跡を流域とする谷を門坊寺谷という。寺の名前としては「門坊」よりも「聞法」が当っているはずで、日吉町世木林の大般若経の書込みのなかに「聞法寺」の文字がある(『知井村誌』『美山町誌下巻』参照)。『北桑田郡誌』(1904年)に、「門坊寺ノ遺趾ハ河内谷ノ東隅ニ峙テル門坊寺山ノ中腹ニアリ此寺ハ聖徳太子時代ノ創立ニシテ桓武天皇勅願所トナル延暦年間傳教大師堂宇ヲ修築シ丹波道場ト定メ寺領五百石ヲ有ス當時頗ル荘厳ナリシガ天正年間明智光秀周山ニ城ヲ築クニ方リ寺領ヲ没収シ伽藍坊舎ヲ破壊シ之ヲ其用材ニ充テタリト云フ其佛坊官密ニ他ノ寺院ニ隠セシヲ以テ今尚所々ニ散見ス就中仁王ノ大像ハ大和國長谷寺ニ釈迦ノ木像ハ周山村慈眼寺ニアリ其坊官ノ遺族ハ代々血統ヲ継キ古来上坊ト称シ河内谷ニ住ミ農ヲ以テ生計ヲ営メリト云フ其寺跡ニハ今尚毘沙門天ヲ祭レル一小宇アリ表門筋裏門筋ノ二道ハ今ハ唯樵夫ノ往来スルニ過キサルノミ」(282〜283頁)とある。裏門筋は河内谷のメイン集落から真東に尾根を行く道であり表門筋はメイン集落より北の地点から行く道である。両者は尾根上でY字状に合流している。 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351804&l=1353909 http://lsweb1.ess.bosai.go.jp/pdfview/series22/pdf5235/005.pdf 参考:樋口きよえ「美山町河内谷の聞法寺(門坊寺)」 『友の会だより』No.136(2010.7.1)京都府立ゼミナールハウス友の会 http://blog.goo.ne.jp/mfujino_1945/e/a185f7de7566509be3adaffbf00a69fa 聞法寺跡を撮影した動画を下に示す。 (荒倉寺) ふるさと京北鉾杉塾『ふるさと再発見』に「知谷の集落を過ぎたところの右側に荒倉寺跡があり本坊と寺坊に多くの僧が住んでいたといわれる」(47頁)とある。谷が南向きの緩やかな源流部から南東に方向を変え、傾斜が急になりはじめる遷急点にあり、南方には愛宕山が見える。『京都市内遺跡分布調査報告平成17年度』は「平坦地は3ヶ所ある。大きいもので東西約20m×南北約10mのものがあり、いずれも崩壊が進んでいるが、石組の基壇が一部残っているところがある。」(11頁)とする。 http://www.city.kyoto.jp/bunshi/maibun/tizu/01-16.html http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351341&l=1353820 (朝日寺) 上記『ふるさと再発見』に「石垣が三段の朝日寺跡がある。仁和寺の末寺で嘉元元年(一三〇三)に建立。廃寺年は不明。」(50頁)とある。『京都市内遺跡分布調査報告平成17年度』は「平坦面は大小6面あり、大きいものは約70m×20mを測り、石組囲いの中に土壇状の高まりがあり、遺構の中心施設を窺えるものもある」(11頁)としている。府立丹後郷土資料館『丹波・丹後の大般若経』に、山麓の普門院に伝わる大般若経の紹介があり、この大般若経はもともと朝日寺にあったようである(31頁)。朝日寺に至る道は、朝日峠の東麓の大岩から直に朝日寺に通じる道があるほか、朝日峠から水平に朝日寺に行く道もあり、三角形をなしている。この付近の山は朝日山といい、朝日峠の西麓に「従是朝日山」の石碑がある。また朝日峠には元禄や享保の年号のある墓石があり、『ふるさと再発見』では「峠に上がるとすぐに神宮寺跡」があるとする。普門院(朝日寺)の大般若経の書込みには大地震(1538年)や疫病(1540年)、大雪(1574年)などの情報が含まれている(『丹波・丹後の大般若経』)。「天文七年戊戌正月廿日」の大地震の情報は、「御湯殿上日記」の同日の記述「ちしんおひたゝしくゆる」と合致している(古代・中世地震・噴火史料データベース)。 http://www.city.kyoto.jp/bunshi/maibun/tizu/04-04.html http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351259&l=1353748 朝日寺跡を撮影した動画を下に示す。 これ以外にも随時、動画を掲載してきたが、それらは以下のリストから一覧することができる。 http://www.youtube.com/MyAyabe#p/u このエントリーの情報◆郷土について 紅に染まる三坂峠 2009/11/30 12:00 am
鍛治屋の三坂峠にまつわる「三坂女郎」の悲話について、「猪崎の城主塩見氏の妻は小畑の波々伯部氏の娘であり、猪崎城が明智光秀の勢力に滅ぼされた際、実家の小畑に逃げようとして三坂峠で伐たれた。その鎮魂の石碑が峠に残っている」という説明を聞くことが多い。
ただ『佐賀村誌』(1995年)によれば、峠の石碑は別の悲話にまつわるものである。 (リンク「三坂女郎物語のヴァリエーション」) http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=155 すなわち報恩寺城の片岡氏が物部城の上原氏によって滅ぼされ、片岡氏の妻は当の上原氏の出であって、物部に戻る途上、三坂峠で伐たれた。時に永禄2(1559)年1月23日。 一方、猪崎城主塩見氏の妻が小畑に戻ろうとして三坂峠で伐たれたのは天正7(1579)年夏のことである。 報恩寺の片岡権右衛門が峠に立てた南無妙法蓮華経の石碑は悲劇から200年後、明和6(1769)年「1月23日」の日付であり、片岡氏の妻が伐たれた永禄2(1559)年の「1月23日」と合致する。 従って『佐賀村誌』の記すとおり、峠の南無妙法蓮華経の石碑に関する説明は以下のようになるだろう。 「報恩寺の城主片岡氏の妻は物部の上原氏の娘であり、報恩寺城が上原氏に滅ぼされた際、実家の物部に逃げようとして三坂峠で伐たれた。その鎮魂の石碑が峠に残っている」。 (リンク・報恩寺城の場所) http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351928&l=1351033 1559年と1579年、20年の時を隔てて二度の悲劇を見た三坂峠。 峠道は荒れているという話を聞くこともあるが、若干の倒木や下草はあるものの道は充分に残っており大きな困難なく越えることができる。 鍛治屋側は谷道であり国土地理院の地図もほぼ合致しているが、報恩寺側は国土地理院の地図のような谷道でなく、尾根道である。従って報恩寺側の道は国土地理院の地図が示すより南側にある。 峠の鍛治屋側は植林である一方、報恩寺側は雑木であり、晩秋の午後、樹々の葉が血の紅に染まる。 峠道からは樹間に報恩寺の田園が垣間見える。通い慣れた道。それが命懸けの逃避行の身には心臓破りの急坂に思える。焦燥と束の間の安堵。希望はあと一歩のところで失墜する。 音楽には、疾駆する馬車から楽想を得たという話のある「テンペスト」を用いた。 このエントリーの情報◆郷土について 井根の大銀杏 2009/11/19 7:00 pm
マイケル・オンダーチェの小説をアンソニー・ミンゲラが監督して映画化されたThe English Patientでは、24分56秒に夢のようなシーケンスがある。
横たわる「患者」の記憶のなか、飛行機は砂漠の岩山を縫って舞う。幸福の中にも悲劇の芽をはらむ岩山の襞と、全てを失った患者の褥がスライドしながら重なる。ディゾルブの凱歌。過去と現在が融け合う一瞬である。 井根の大銀杏。樹齢は450年以上※。 風のなかを銀杏はひとつの生き物として揺れる。タルコフスキーの小川に戯れる水草のように。 葉が揺れ、枝が揺れ、……その波の合成として樹が揺れる。ミクロからマクロへのフラクタル。 枝の前を蝶が横切った。その軌跡は、再び枝のイメージに昇華した。 1分30秒を過ぎ、音楽は短調へと転じる。一本の樹を追って、下端から上端まで90秒ノーカットの上チルトが可能だった。 一年、また一年、今まで何万枚の葉を空に舞わせてきたことか。過去と現在のディゾルブ。 やがて葉は吹雪として舞うだろう。「三千大千世界、六種に震動し、大光あまねく十方国土を照らす。百千の音楽、自然にしてなし、無量の妙華、紛々として降る」(無量寿経)。 ※綾部自然の会『綾部の古木名木100選〜緑と文化の遺産〜』(1997)90頁 このエントリーの情報◆郷土について 何鹿は最初からイカルガだったか 2009/11/17 6:38 pm
蛮勇を顧みず色々書いているが、何鹿という地名はイカルという鳥と関係あるのだろうか。
『地名用語語源辞典』は、「いかるが」という地名について、「アトリ科の小鳥であるイカルガの棲息によるという説があるが、とうてい信じがたい。」としている。 ……楠原佑介・溝手理太郎編『地名用語語源辞典』三版、東京堂出版2000、32頁 「何鹿」「伊看我」「伊干我」という木簡の表記をそのまま見る限り、音はイカンガ(イカヌガ)ないしそれに近い音ではなかろうか。 http://www.japanknowledge.com/contents/journal/howtoread/howto_02_2.html 綾部市資料館特別展示「何鹿の匠」(2009年11月)でも、「8世紀の初め頃までは、伊看我または伊干我と表記し、イカンガと呼んでいたようです。古墳時代もおそらくイカンガと呼ばれていたでしょう。」としている。 以前も記したが、「敦賀」や「駿河」ではンガとルガが通じているように思う。 http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=34 すなわち、敦賀(ツルガ)の漢字はトン(ツン)・ガであり、ツヌガ(都奴賀、角鹿)が音便のようにツルガに転訛したものではなかろうか。 駿河「するが」も漢字を見れば駿河スン・ガである。 -nga,-rgaは転訛の関係にあるのではなかろうか。 和名抄で「何鹿」に「伊加留我」と音をつけているにしても(綾部市史上巻86頁)、木簡の「伊看我」「伊干我」のほうが先だろう。 だから「何鹿」も、少なくとも木簡に記された「何鹿」の時点では、イカンガのように読んでいた可能性がないかと考えるわけである。 以上のようなことから、イカルガよりもイカンガのほうが地名の原型に近いのではなかろうか。 そして更に言えば、イカンガという音の前にイカヌカという音の段階はなかったか。 ンガという音の前にヌカという音があるように思うだけであるが。 つまりここで空想するのは、イカヌカ⇒イカンガ⇒イカルガというプロセスである。 このエントリーの情報◆郷土について 国立環境研究所のデータにみる綾部の自動車CO2排出量 2009/10/06 9:28 pm
国立環境研究所の環境GIS( http://www-gis.nies.go.jp )に、自動車からのCO2排出量のデータがある。
http://www-gis5.nies.go.jp/carco2/co2_main.php 統計的推計値であり、自治体ごとに自動車からの総排出量と一人あたり排出量が示されている。 推計方法を含めたデータに関する説明は以下に掲載されている。 http://www-gis5.nies.go.jp/carco2/co2_explain.html 以下、綾部・舞鶴・福知山について、乗用車と貨物車を合わせた全自動車に対する数字を見てみる。 (1)市町村の地域あたり年間総排出量 年間総排出量(乗用車+貨物車)は、舞鶴と福知山はほぼ同等であり、綾部はその半分である。 [年間総排出量] ┌────┬────┬────┬──┐ │トン/年 │ 1999年│ 2005年│傾向│ ├────┼────┼────┼──┤ │ 綾部 │ 78,726│ 81,405│増加│ ├────┼────┼────┼──┤ │ 舞鶴 │ 166,727│ 165,786│減少│ ├────┼────┼────┼──┤ │福知山 │ 163,894│ 144,858│減少│ ├────┼────┼────┼──┤ │3市合計│ 411,346│ 394,054│減少│ └────┴────┴────┴──┘ (2)市町村の人口一人あたり年間排出量 人口一人あたり年間排出量(乗用車+貨物車)は、舞鶴が一番少なく、1999年時点では綾部より福知山が多かったが、2005年時点では綾部と福知山はほぼ同等になっている。 [一人あたり年間排出量] ┌────┬───┬───┬──┐ │トン/人 │1999年│2005年│傾向│ ├────┼───┼───┼──┤ │ 綾部 │ 2.02│ 2.16│増加│ ├────┼───┼───┼──┤ │ 舞鶴 │ 1.77│ 1.81│増加│ ├────┼───┼───┼──┤ │福知山 │ 2.41│ 2.13│減少│ ├────┼───┼───┼──┤ │3市平均│ 2.07│ 2.03│減少│ └────┴───┴───┴──┘ 非常に大雑把には、綾部・舞鶴・福知山における自動車からのCO2排出量は3市合計で年間約40万トンであり、一人あたりでは年間約2トンとなる。 なお京都市について見ると2005年で年間約134万トン、一人あたり約1トンであり、総量は多いが一人あたりでは約半分である。人口密度や公共交通機関のあり方が効いているのかもしれない。 以上は乗用車+貨物車の数字で、乗用車について見ると、統計的信頼性の問題はあるが大雑把には一人あたりの数字は上記の約半分である。 もちろん人口一人あたりといっても、自動車を運転する人もしない人もある。綾部市の人口は約3万6千人であるが綾部市内の運転免許保有者数は約2万4千人で、人口の3分の2である。 http://www.city.ayabe.kyoto.jp/download.rbz?cmd=50&cd=1530&tg=3 運転する人ひとりあたりに直せば値は大きくなるはずである。 ![]() 年間総排出量(市町村ごと)は都市部のほうが大きいが[上]、人口ひとりあたりでは地方部のほうが大きい[下] ( http://www-gis5.nies.go.jp/carco2/co2_main.php より) このエントリーの情報ページナビゲーション |
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