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Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2011-05-17 21:52:39 (2798 ヒット)

(1)
今まで、宝尾や大田和に山寺跡を求めてきた。

それは上林とも距離的には近い存在であった。

陸地測量部の二万分一地形図「三國嶽」には、市茅野と大田和を結ぶ小径が破線で記されている。また同じく、市茅野と横津海を結ぶ峠道が二重線で記されている。

この明治時代の地形図が示唆するように、市茅野から大宝寺へのトラフィックが可能であること。

横津海から市茅野へのトラフィックが可能であること。

それをたしかめたかった。

※大宝寺跡(推定)については下記リンク参照
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=27


(2)
4月に山躑躅が山を彩り、若緑に山々が萌え始める。そして5月、シャガの白と藤の紫があらわれる。

早稲谷など上林の各地で、シャガがいちめんに咲くようになる。

それは市茅野でも同じであった。



村の奥の神社のあたりでもシャガが咲き始めていた。



神社の裏から山にとりつく。



丹波と若狭の国境の尾根をたどり、標高点474mと三角点552mとの間にある鞍部をめざした。

この鞍部をここでは鞍部Aとする。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352659&l=1352918

国境の尾根のうえに若干掘れた道があらわれたと思うまもなく、標高400m付近で送電鉄塔に遭遇した。

この送電鉄塔のところから、林道が尾根を横切り、鞍部Aまで続いていた。

陸地測量部の二万分一地形図に記されたユリ道は必ずしも確認できなかった。

鞍部Aに到達すると、双耳峰である青葉山の姿が正面に見えた。



この鞍部Aから、東の三角点552mへと直登した。標高差100m。

山頂では三角点が杉の落葉に埋もれていた。



この三角点に到達したあとは、おおい町と高浜町の境界尾根をくだるのみである。


(3)
細い尾根だが、当サイトが大宝寺跡と目している地点に近づいてくると、山肌が何となく広がり、ふくよかな庭園風に感じられてくる。

尾根の北側が谷頭浸食で馬蹄形に落ち込んでいる。その落ち込んだ上の空間に紫の藤の花が揺れている。



このV字の谷が、大宝寺跡(推定)へとつながっているのだ。

水が湧き出すように流れる音がする。

湧き水だろうかという思いに誘われて、その音をたずね、流れに近づいてみた。

近づきながら気づいたのだが、上部に平坦地があるようだ。

以前は必ずしも認識していなかった平坦地。

そこから水が流れ落ちて音をたてていた。

標高410m。

大宝寺跡と推定している標高350m前後の地点より高いこの地点にも、平坦地があった。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352704&l=1352944

平坦地の端に、テンナンショウが佇立していた。

平坦地の一角に水たまりがあり、そこから水がしみ出して、谷水の源頭となっているのだった。
この平坦地は人工のものだろうか、自然のものだろうか。

その平らさから、人工的な平坦地であったとしても不思議ではないとおもえるのだった。















妄想するに、ここも大宝寺の一部分、奥の院のような一部分ではなかったか。

そして道は大宝寺跡(推定)からこの地点へと続いていたのではないか……。

その後、谷頭浸食によって道は崩落。交通が途絶したかたちでこの平坦地は谷の向い側に残った……。

そのようなことを空想した。

実際、夏に大宝寺跡(推定)を訪ねたさいも、寺跡と目したメインの部分より上部に道が続いており、それでいて、その道は中途で崩落して途絶えていたことには気づいていた。

 大宝寺跡(推定)より上部へ続く道は途中で崩落して途絶えているように見える


その崩落した道の延長線上に、先ほどの新たな平坦地があると考えれば、心の中の辻褄は合うのだった。

高浜町郷土資料館『青葉山麓のみほとけたち−里の祈りと仏−』(1998)に、

「横津海地区には何躯かの朽損仏がおまつりされていますが、言い伝えによると、いつの頃かはわからないが、集落の中を流れる前川が豪雨で増水したときに、上流から流されてきたということです。」(28頁)

とある。

仏像の作風が「平安時代後期」(同30頁)とされていることから、寺院の存在時期も推定できる。

(リンク・川上から仏様が流れてくる話)
http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=138

V字谷の源頭にあるこの標高410mの平坦地に仏様がおられたとすれば、廃寺後、浸食にともなって仏様が流れていかれたという想像に現実味を感じることができそうだった。

たぎつ瀬に月影させば水底に黄金の甍千々に乱れぬ

(音を立てる夜の谷川に月光がさす。格子のような水面の波が川底にうつって揺らめく。それはかつて存在した伽藍の甍が揺れているのだ。)

いつの朝か千尋の淵に人知れず深く遊びてみ姿拝まん

(人知れず深い谷川の底にお休みになっている仏。いつの日かそのみ姿を仰ぎたいものだ。)

落花分けて水の鏡をみ仏は滑るが如く進み給ひぬ

(流氷のように桜や椿の花びらを一面にしきつめた春の川面。その花々を分けるように仏は谷川をくだっていかれる。)

虹まとひ猛き不動は滝に立ちぬ千歳にひとつ谷下りつつ

(谷川の滝を虹が横切る。火焔を背負う猛き不動だが、その優しげな色の虹に包まれて滝に立っている。少しずつ少しずつ谷川をくだっていくのだ。)


大宝寺跡(推定)へとくだっていく。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352711&l=1352948
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=27

上記『青葉山麓のみほとけたち−里の祈りと仏−』に、「かなりの規模の寺院の存在がうかがえる」(30頁)と記された大宝寺。

夏に訪ねたときに確認した段々畑状の地形があらわれた。



以前確認したとおり、この段々畑状の地形の一部分は石垣で補強されていた。





そして段々畑よりも広々と加工された、いくつもの平坦地。

石垣も伴っているこの人工的な地形が、何の遺構でもないということは考えがたかった。

数ある平坦地のひとつで、エビネが二本たたずんでいた。





[この動画は2009年8月]


この大宝寺跡(推定)を後にして、竹に覆われた参道(推定)をくだった。





大田和の村落跡にはまだ椿の花が咲き残っており、藤の花の紫を背景にして揺れていた。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352725&l=1352946










(4)
大田和から谷をくだり、横津海の奥の林道におりたあとの目標は、谷を西に詰めて、市茅野に戻ることだった。

標高点268mの西南にある標高250mの鞍部(ここでは鞍部Bとする)をめざした。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352737&l=1352924

陸地測量部の地図に描かれたような道は確認できなかったが、急斜面を這い上がって鞍部Bに出た。

斜面を這い上がる途中から雨音が顕著になり、不安を募らせるように、驟雨が降ってきた。

雨音のなか、標高差50mを登ると、林道に出た。

三国岳の南東900m、当サイトで生守山と目している標高545mの山が見えた。

風にあおられた谷霧がこの山の斜面を切れ切れに覆っては漂っていくのだった。



陸地測量部の地図に描かれた道は、大雑把には林道と一致しているはずだった。

雷雨が打ち付けるなか、陸地測量部の地図に描かれたとおりの道をさがすことには限界があり、林道をたどった。

標高点545mが姿を変えながら視界の右側に見えつ隠れつした。

鞍部Aに戻ってきた。

ここからは往路と異なり、林道をさらに西にたどって市茅野の奥、関屋に越える坪谷峠(仮)に出た。

ここからは南に市茅野へと下るばかりだった。

雷雨はやみ、あたりは静寂にひたされてきた。

降りていくと、峠道は緑のシダに彩られるようになった。



谷へ降りてきたころ、斜面はいちめんのシャガにおおわれた。

明滅する燐光のように、緑の斜面のなかに白いシャガの花が揺れているのだった。



シャガの花は先ほどの驟雨に打たれて、透明なしずくを載せ、玲瓏とした透明さをまとっていた。







こうしてシャガの絨毯につつまれながら、市茅野の神社に戻ってきたのだった。

市茅野から大宝寺跡(推定)、大田和、そして横津海の奥の谷から市茅野にもどってくるトラフィックは、明確に掘れた古道は大田和と大宝寺跡(推定)の周辺にしかないものの、不可能ではなかった。ただし今回、林道に依存した部分が大きいということはある。

市茅野と大宝寺跡(推定)との間に、鋭い三角点552mがあるため、その間のトラフィックはけっして平坦なものではない。しかしその間の距離は2〜3kmであって、けっして遠いものではないこともたしかである。

 青葉山麓の今寺から眺める三角点552m(写真右)と大田和・大宝寺(推定)あたり(中央)2009年9月撮影


牧山、宝尾、大田和とつづく山上の寺院の分布、それと上林との距離的な近さを実感したく、このような経路をたどってみたのだった。


はじめて大田和を訪ねたころ、「青葉山を取り囲むこの一帯は深い山中でありながら、山より更に存在感の大きな海に全身が融け込んでいき、西方浄土という言葉が口をついて出るようなひとつの世界である。」と記した。

憶測ではあるが、ここに見た標高350〜400mの大宝寺跡(推定)の付近から北方が、今より樹木が少なく、或いは樹木が切り拓かれていたら、どうだろう。

海が見えただろうか。

ここで心を澄ましていた古人も、緑の山々、そしてその向こうに霞む蒼い海、その重畳するなかに立ち上がってくる大きな感覚に陶然と身を委ねていたのではないかと想像されてならないのである。

大田和地図


【注】
これは暫定的な情報を記したものであり、さらに検証を続けることは課題です。このサイトの情報全般についても言えることですが、いずれの記事も当サイトの現時点での認識を記したものであり、情報自体および情報を利用なされた結果(道迷いその他諸般)については免責とさせてください。


Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2011-01-23 22:17:18 (2570 ヒット)

綾部WALKER拾遺ノート(1)弓削の朝日寺

「天正二年甲戌正月廿三日ノ夜大雪降ル、ヲヨソ四尺斗ト各令申也、前代未聞無事ト申云云」。

これは京北町弓削にある普門院の大般若経の書き込みの一部分である。

京北町弓削の朝日山の山中に朝日寺の跡がある。
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/maibun/tizu/04-04.html
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351259&l=1353748

山麓にある普門院の大般若経は、もともと朝日寺にあったようである(京都府立丹後郷土資料館『丹波・丹後の大般若経』30〜31頁)。

上記の「天正二年甲戌正月廿三日ノ夜大雪降ル」は、旧暦ではあるが「正月廿三日」のことなのでこの記事の最初に引いた。

普門院(朝日寺)の大般若経の書込みには上記の大雪のほか、織田信長の比叡山焼き討ち(1571年)、大地震や疫病などの情報が含まれている(『丹波・丹後の大般若経』)。

地震に関しては、「天文七年」(1538)のこととして、「天文七年戊戌正月廿日巳尅大地震云云、天下不思議已而」とある。

疫病に関しては、「天文九」年(1540)のこととして、「天下太病天文庚子ノ春比、凡ソ八分ハカリモ人民死ス、[略]当庄人三百人斗死ス乞」とある。

朝日寺について『ふるさと再発見』(ふるさと京北鉾杉塾)には、「石垣が三段の朝日寺跡がある。仁和寺の末寺で嘉元元年(一三〇三)に建立。廃寺年は不明。」(50頁)とある。

『京都市内遺跡分布調査報告平成17年度』は「平坦面は大小6面あり、大きいものは約70m×20mを測り、石組囲いの中に土壇状の高まりがあり、遺構の中心施設を窺えるものもある」(11頁)としている。

朝日寺に至る道は、朝日峠の東麓の大岩から直に朝日寺に通じる道があるほか、朝日峠から水平に朝日寺に行く道もあり、三角形をなしている。

この付近の山は朝日山といい、朝日峠の西麓に「従是朝日山」の石碑がある。

また朝日峠には元禄や享保の年号のある墓石があり、『ふるさと再発見』では「峠に上がるとすぐに神宮寺跡」があるとする。

京都市文化財ブックス第22集『杣の国−京北・文化財のしおり』(2008年)では朝日寺について、

「明確な記録が少なく創建年代は不明だが、一説には嘉元元年(1303)に遡ると言う。現在上弓削の普門院に伝わる大般若経の奥書には、延元元年(1336)に朝日寺の僧が願主となってこれを転読したことが記されており、この時には確実に存在したと言える。また、現在、京北各所に伝わる仏像や経典には、もと朝日寺のものとする伝承が少なくなく、古くはかなりの寺勢を誇っていたものと推測される。」(57頁)

としている。普門院の大般若経については同書38頁に記載がある。


Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2010-10-21 01:49:07 (3012 ヒット)

鬼ヶ城と烏ヶ岳の山塊を下界から眺めると、二瘤駱駝の背のようなその姿の中間部、やや低くなっているところが鬼ヶ城峠である。この峠はかなり高いところを越える峠だと思える。

峠の鞍部は鬼ヶ城と烏ヶ岳の山頂からは約100メートル低いだけであって、峠越えというよりはほとんど登山の感じを与えるものであり、いくら昔であっても下の平地を迂回したほうが楽だったのではないかという思いも湧く。

鬼ヶ城と烏ヶ岳(写真右下) 鬼ヶ城と烏ヶ岳(写真右下)




鬼ヶ城峠について『大江町誌通史編上巻』は以下のように記す。

「文久二年製版の丹波丹後地図には室尾谷から鬼ヶ城峠を越えて里村に通じる峠道があり、田辺藩絵図には猪崎に至る峠道が記されている。すなわち鬼ヶ城峠である。「猪崎より丹後国南山村迄壱里廿一町三十間、牛馬不通但鬼ヶ城峠国境迄三十四丁四十間」とは、「丹波志」に記すところである。中世までは、由良川右岸には福知山から丹後に通じる道がなかった(「丹波志」)ので、この道が主要路であったと考えられる。幕府の巡検[ママ]使一行もたびたびこの峠を越えて丹後入りをしている。急峻で牛馬も通わない峠ではあったが、歩行の時代にあっては利用度の高い道であったのである。この峠道は今鬼ヶ城の登山道となっている。」(『大江町誌通史編上巻』1983年、16〜17頁)

この鬼ヶ城峠について気にかかっていたのは、それがどこからどこへ越える峠かということであった。

現在、池部の庵我小学校のところから烏ヶ岳への車道がついており、鬼ヶ城峠の鞍部を通過して、烏ヶ岳山頂に通じている。そのため一見、鬼ヶ城峠の道は現在の車道と同じ谷についていたのではないかという印象を与えるかもしれない。また峠というものが単純に谷から谷へ越えるものであると仮定すれば、鬼ヶ城峠の鞍部の東側の谷は観音寺の谷であり、西側の谷は池部の谷である。

しかし『丹波志』では、上掲の大江町誌が引用するように「猪崎村ヨリ丹後国南山村迄一里二十一丁三十間牛馬不通但鬼ヶ城峠国境迄三十四丁四十間」(丹波志天田郡巻之三「猪崎村」)とあり、鬼ヶ城峠は南山と猪崎とを結ぶ峠である。

寛政十一年の丹波國大繪圖を見ても、その峠道として描かれたルートの出発点は猪崎である。

また明治26年測図29年製版の陸地測量部二万分一地形図「河守町」「福知山」でも、鬼ヶ城峠の道は南山から猪崎の醍醐寺のところへ越えるものとして描かれている。南山から鬼ヶ城峠に達した道は、峠直下の池部の谷には下らず、南へスライドして尾根をまたぎ、ひとつ隣の猪崎の谷へ降りているのである。

従って鬼ヶ城峠の道は、現在の車道が与える印象をいったん離れ、江戸時代の文献や地図、明治時代の地図が示すように、南山から猪崎へ越えるものとして考える必要があると思えた。

特に峠の西側で、峠直下の谷を下らずスライドして別の谷に降りているであろうことは、峠のあり方として特徴的であった。あとは少しずつ現地確認していくことだった。


(1)鬼ヶ城

和知の先人(「雲水」)は、「身に入(しむ)や鬼が城より吹あらし」という俳諧を詠んだ。

おぐに峠にて西ノ方を見やりて、鬼が城とかいふをきゝて
身に入(しむ)や鬼が城より吹あらし  雲水
(『和知町誌 第一巻』1995年、746-747頁)

浅原の天狗岩(推定)付近から見る鬼ヶ城(写真奥) 浅原の天狗岩(推定)付近から見る鬼ヶ城(写真奥)


『舞鶴市史・通史編(上)』1993年によれば、「瀧洞歴世史」に以下の記述があるという。

「宝永庚寅七年六月十七日 御巡見宮津ヨリ田辺エ御コシトマリ十八日北有路村立玄加兵衛孫兵衛トマリ 十九日鬼ガ城御ラン福知山ヘ御コシ……」(1025頁)

これは1710年6月に巡見使が宮津から田辺を経て北有路に宿泊し、鬼ヶ城を訪れたあと福知山に越えたことを示す。

ここでいう巡見使とは「江戸時代、将軍の代替りごとに幕府から五畿七道の政情・民情視察のため派遣された臨時の使者」(『舞鶴市史・通史編(上)』1993年、1024頁)である。

福知山−田辺−宮津の順路で巡見する場合のルートは、

「鬼ヶ城御境(福知山藩境)−鬼ヶ城登山−室尾谷山観音参詣−南山村−有田村−常津村−尾藤村−千原村−千原村渡場−河守−金屋村境−上野村−北有路村(泊)−北有路村船場−二ヶ村揚場(以上、現大江町)−桑飼下村(小休)−久田美村口−真壁峠(小休)−城屋村−野村寺村−高野由里村−京口番所−田辺(泊)−宮津口番所−上福井村−大船峠(小休)−中山村(小休)−中山村渡場−和江村揚場−石浦村−由良村(昼休)−浜通の−長尾峠御境(小休)−(宮津藩)」(同1026頁)

であった。

これらから、巡見使が鬼ヶ城を訪れていたことがわかる。

また『大江町誌通史編上巻』は諸文書から、田辺藩主が鬼ヶ城を訪れた記録を拾っている(407〜408頁)。すなわち、

・明和三[引用注:1766]五代惟成市原で狩 勢子二百 翌日鬼ヶ城登山
・天明六[引用注:1786]宣成 鬼ヶ城登山
・文化六[引用注:1809]七代以成鬼ヶ城登山(田辺孝子伝)
・文化十[引用注:1813]八代節成鬼ヶ城登山 市原鳥狩
(以上、『大江町誌通史編上巻』408頁)

このように歴代の田辺藩主牧野氏も鬼ヶ城に登ることがあった。

この鬼ヶ城山頂を訪ねることから始めた。鬼ヶ城に登ることは初めてではないが、久方ぶりのことであった。

現在の観音寺の一番奥にある本堂の標高は約170メートル。そこからコンクリート舗装の道が谷を詰めている。コンクリート舗装がなくなって右岸の道はまもなく谷を渡り、左岸の道となった。

谷底には段状をなす水田の跡が残っている。道は最初のうち、平たい幅のある古道の感を残しているが、谷を詰めるにつれて掘りが浅くなり、すべりやすい地道となった。

道は植林の間をあがっていく。鬼ヶ城峠は正面左上方である。しかし道は右(北)にスライドしていき、右上方に尾根の樹間越しの光が見えるようになった。左上にあるはずの鬼ヶ城峠からは離れていってしまう。

急傾斜の道をたどると標高420メートル附近で道は支尾根に達し、鬼ヶ城への道は右方へのユリ道となって続いていた。この支尾根に達する地点をここでは仮に「北の乗越し」と呼ぶ。

国土地理院の地図では、点線で示される歩道がこの「北の乗越し」からなぜかいったん別の谷底にくだり、そしてまた登りに転じて鬼ヶ城の山頂へと至るように描かれている。しかし実際にはさすがにそういうことはない。

道は北の乗越から西に緩い傾斜で進み、標高450メートルの鞍部に達したあと、北方向に転じて鬼ヶ城の山頂へと向かっているのである。

蛇行を繰り返す登山道をたどると、人工的な石積みのみられる狭い通路を経て、最初の段状地形に達した。東方に綾部の山々が垣間見えた。

急斜面をヘアピンの細い道で登ると小規模な数段の段状地形のあと、鬼ヶ城の山頂であった。

山頂の木々はほぼ刈り払われており、四方に展望が開けた。

明治11年(1878)の『丹後國加佐郡町村誌』(京都府立総合資料館蔵)の「南山村」の節に、

「鬼ヶ城山 高周詳ナラス村ノ南ニアリ嶺上ヨリ四分シ南ハ丹波國何鹿郡印内村ニ属シ西南ハ天田郡猪崎村ニ属シ西ハ同郡中村ニ属シ北面ハ本村ニ属ス山脈〓(虫偏に廷)蜿シテ四方ニ連亘ス満山樹木ヲ見ス唯柴茅ヲ生スルノミ登路一條本村字室谷ヨリ上ル昇リ十七町険ナリ渓水三條アリ共ニ山間ヨリ発注シ北流シテ室谷川水源トナル」

とある。このことから、明治11年頃の鬼ヶ城は「満山樹木ヲ見ス唯柴茅ヲ生スルノミ」であったことがわかる。明治26年測図明治29年製版の陸地測量部二万分一地形図「河守町」でも、鬼ヶ城は草地の記号で覆われている。

このことから、往時も鬼ヶ城山頂からの展望はさほど樹木にさえぎられることなく広がっていたのではないかということを想像した。

西方に和久川の流域が午後の光をうけてしずまり、川面がきらめいている。

『福知山市史』第二巻(1982年)は、「(永禄八年)八月二日、内藤備前守芳雲入道晴(宗)勝、赤井一族と合戦し、和久郷に於て敗北す」という「西田・川勝家譜」の記述を紹介し、「八月二日の「和久郷の決戦」で内藤方は大敗し、総大将宗勝は戦没」したと推定している(224〜225頁)。

これによれば内藤備前守宗勝(松永長頼)は1565年に「和久郷に於て敗北」して戦没したことになるが、その和久郷のあたりである。

「守護代内藤宗勝が和久郷で戦死したのは、…[略]…永禄八年八月であるから、備前守貞勝を含む内藤の残党が鬼ヶ城にこもったのは、その直後であろう(『福知山市史』第二巻、485頁)。

厳密な事実関係は別として、仮に内藤の残党が鬼ヶ城にこもったとすれば、内藤宗勝が戦死したという和久郷のあたりは鬼ヶ城からよく見える。「内藤の残党」たちは和久郷のあたりをどのような思いでこの山巓から眺めていただろう、というようなことを思った。

そして和久寺廃寺のあたり。今は鹿島神社が立地するその神社の杜が田園の中に影を落としていた。





(QuicktimeVRによる鬼ヶ城山頂からのパノラマ)


鬼ヶ城山頂からの帰り、上記の「北の乗り越し」のところから鬼ヶ城峠のほうへ、水平に近いユリ道が延びていた。この道をたどると植林の間を抜けて、鬼ヶ城峠の鞍部に出た。池部からの車道が円弧状に峠の鞍部をかすめ、烏ヶ岳をめざしてさらに上へと向かっていた。

「北の乗り越し」に戻り、観音寺への道を降りた。「北の乗り越し」から上の道は観光用の登山道の趣があり、一方で北の乗り越しから下の道は植林のあいだを下るすべりやすい地道であって、古道の感じがあまりなかった。どこまでが古道なのか判然としない思いをいだきながら観音寺へと降りた。


(2)猪崎側の道の確認

別の日、猪崎側の道を確認するため、再度観音寺の側から山に入った。

北の乗り越しから、すでに見た道をたどり、鬼ヶ城峠の鞍部に出た。明治時代の陸地測量部地図によれば、峠道は峠の向こう側の谷に降りたあと、左側の尾根へスライドしているはずだった。

しかし峠の向こう側は下生えのある植林に覆われ、峠道は判然としなかった。

そこであらかじめ次善の策として想定しておいたとおり、いったん車道を烏ヶ岳の方向へと登った。

車道を標高480メートル地点までのぼり、そこから西へと延びる尾根(標高点366メートルのある尾根)へとくだるためだった。

車道と別れ、笹の猖獗した斜面を抜けて尾根へと下降していく。この山に転がっている岩石には細かな気泡のようなものがあった。

笹に悩むこともなくなり、100メートルの標高差を下降。古道はあるだろうか?

尾根が中ダルミになってすぐのところに、陸地測量部地図が示す古道があらわれた。標高360メートル。

ここを仮に「南の乗り越し」と呼ぶ。

鬼ヶ城峠の鞍部の附近ではまったく不明だった古道がここでは明確にこの「南の乗り越し」をまたいでいた。

「南の乗り越し」 「南の乗り越し」


「南の乗り越し」をまたぐ古道 「南の乗り越し」をまたぐ古道


あとは醍醐寺の北方へと延びる谷へ、この尾根の南斜面を下降するだけだった。

この南斜面の道は最初、雑木に覆われて歩きにくいが、よく掘れた古道の形状が残り、見失う心配はなかった。ただしところどころで路肩が崩れ、篠竹に覆われている部分もあって、歩きやすいとはいえなかった。

鬼ヶ城峠(猪崎側の道) 鬼ヶ城峠(猪崎側の道)


鬼ヶ城峠(猪崎側の道) 鬼ヶ城峠(猪崎側の道)


さらに降りていくと一瞬、道を見失ったように思えた。

よく観察すると古道を載せていたはずの斜面が大規模に崩落していた。

この大規模な崩落をなんとかこなして、再びあらわれた古道をたどる。道は立派さを増し、一間幅の部分が続いたあと、或る部分では二間幅もあろうかと思われるほどだった。

古道の幅が広くなる地点 古道の幅が広くなる地点


この斜面は急な傾斜であり、道はしきりに蛇行しながらくだっていく。蛇行する部分で道は山肌を大きく削っており、その削られた面が背丈の数倍の高さで、屏風のように立ちはだかっているのだった。

鬼ヶ城峠(猪崎側の道) 鬼ヶ城峠(猪崎側の道)


路面は必ずしも滑らかでなく、下方に行くほど、岩石が路面を埋めてくるようになった。そして再び、篠竹の猖獗。

ふと下方に、草の生えた広場のようなものが見えた。林道に出会うには早すぎるようにも思えたが、やはりそれは広場でなく、醍醐寺から延びる林道であり、深い草に覆われているのだった。

標高250メートル。これで鬼ヶ城峠の古道と醍醐寺からの林道がクロスする地点が判明した。林道終点より少し下の地点だった。

林道からの取り付きがわかったため、同じ道を再度登り返して「南の乗り越し」へと戻った。

あとは「南の乗り越し」と鬼ヶ城峠の鞍部との間が問題だった。乗り越しから峠の鞍部へと向かう道はいったん少し、下り気味になりつつ、ほぼ水平に進んでいく。

水平に進む古道 水平に進む古道


このまま峠へと導いてくれるかと思うまもなく、道はひどく広くなった。古道との不連続性があり、何か様子が変に思えた。

陸地測量部の地図から想定していた水平なユリ道と重なってはいるが、近代的な機械で造成された林道のような広い道。

山側の法面もハードに削られて岩肌が露出していた。古道をほぼ上書きするかたちで、あらたに道が造成されたに相違なかった。

水平なユリ道は池部から延びる大きな谷の谷底に達した。谷川が音を立てて流れていた。

造成された道は谷川をまたいで右岸を西へ下っていってしまう。ここでは東方へと、峠の鞍部をめざさねばならなかった。

しかし植林のためか、谷の埋積作用のためか、道は事実上不明といってよかった。苦心しながら、下生えのある植林のなかを峠の鞍部に出た。

陸地測量部の地図では峠道は峠の鞍部から直接東北へと、観音寺への谷をくだっている。かなり急な谷であることから、いくら陸地測量部地図とはいっても半信半疑のところがあり、実地確認せねばならなかった。しかし今回はこの谷の下降を見送り、北の乗り越しを経由して観音寺に戻った。


(3)再度、陸地測量部地図に描かれた道の確認

猪崎の側の道を確認したので、あとは醍醐寺から峠を越えることとした。猪崎から醍醐寺への道は緩やかで長いスロープとして醍醐寺に到達している。

醍醐寺から城ヶ谷林道へ。林道がある部分は林道をたどった。そして標高250メートル地点から林道を離れて古道に入る。一度歩いているので感覚はつかみやすかった。

いにしえの巡見使の足音を想像しながら歩いた。

「南の乗り越し」をまたぎ、再度あの水平なユリ道へ。やはり近代的な林道の感覚を感じつつ、谷の本流へと達した。この「林道」は急角度で切り返して谷の右岸を降りていっているが、どこまで行っているかを確認しておくことにした。倒木や篠竹に難渋しながら降りていくと、推測のとおり、この「林道」は烏ヶ岳への車道と合流していた。

引き返して鬼ヶ城峠の鞍部へと遡行する。やはり谷底の道は不明であり、答えのないまま峠の鞍部に出た。植林と時間の経過で道が失われたとするのがひとつの考え方であるが、何かを見落としているかもしれず、今後の課題である。

そしていよいよ峠の鞍部から東北の谷を直接に下降。植林に覆われた斜面に道を見いだすことは困難であったが、そのまま谷を下った。

『丹波志』に「牛馬不通」という険しい道がここを通っていたのだろうか。次第に下っていくにつれて、何となくではあるが、谷に沿ってくだる感触のなかに、ある程度の道幅のようなものが感じられ、根拠はないにしても、倒木に覆われたこの道幅のようなものがもしかすると鬼ヶ城峠の道だったのではないか、少なくとも陸地測量部の描画を信用するかぎりにおいては大きくはずしていないだろう、と思えなくもないのだった。

やがて現在の鬼ヶ城登山道に合流。この現在の登山道を登り返して「北の乗り越し」に出、ユリ道を通って鬼ヶ城峠に戻った。

鬼ヶ城峠から、烏ヶ岳に寄り道した。烏ヶ岳の山頂に出ると特に東南の展望が豁然と開け、由良川が平野のなかを蛇行して流れているのだった。北を見ると赤岩山麓にある高地の集落、西方寺平も見えた。

再び鬼ヶ城峠の鞍部に戻り、道の見いだせない谷を下った。そして「南の乗り越し」へと向かう水平な「林道」へ。

ただ「林道」の周辺をよく見ると、「林道」の数メートル下に、もうひとつの段状の水平面があり、これが「林道」造成前の古道の痕跡ではないか、とも思われた。

「南の乗り越し」を経て尾根の南壁の古道をくだり、醍醐寺に戻った。日暮れの山道は白昼とは異なる淡い暗がりに浸されつつあった。


(4)課題

以上のことから少なくとも猪崎の側の斜面の一部分には明らかな古道が残っており、陸地測量部の描画する道とも一致することから、これが鬼ヶ城峠の道であろうと推定できた。

一方で未確認のこともある。ひとつは峠の鞍部の両側の谷道であり、植林のなかをよく探せば何らかの痕跡があるのかもしれないが、現時点では不明である。

次に一里塚のことがある。丹後国田辺絵図(田辺藩主牧野家文書)に、鬼ヶ城と鬼ヶ城峠が描画されているが、この地図では鬼ヶ城峠の道が赤い線で示され、「壱里塚」が描画されている。

丹後国田辺絵図の鬼ヶ城峠 丹後国田辺絵図の鬼ヶ城峠


この地図に記された距離情報からすると、一里塚はどちらかというと観音寺に近いあたりにあったようにも思えるが、現時点では不明である。

また、鬼ヶ城峠の道が陸地測量部地形図に描かれた通りだとして、昔の鬼ヶ城への登山道はどうだったか。そして鬼ヶ城峠の道とはどう接続していたか。

さらに、陸地測量部二万分一地形図では、池部から南山に越える峠道も描かれている。それは現在の庵我小学校より北の地点から鬼ヶ城の西南尾根にとりついて尾根をたどり、ここでいう鬼ヶ城峠の西北300メートル、標高450メートルの鞍部で分水界を越えている。

陸地測量部二万分一地形図からすれば、鬼ヶ城と烏ヶ岳の間を越える峠は池部から来るものと猪崎から来るものの二つがあるということになるのかもしれない。

また庵我小学校から東北に延びる谷、すなわち現在の車道のついている谷も大きな谷であるから、何らかの道がついていた可能性はあるだろう。

このようにいくつもの不確実性を残しながらも、ここで確認した猪崎側の南斜面の道は、江戸時代の文献そして特に明治時代の地形図がもたらす情報と合致するものであり、これが鬼ヶ城峠の道であろうと考えたいのである。

【注】
これは暫定的な情報を記したものであり、さらに検証を続けることは課題です。このサイトの情報全般についても言えることですが、いずれの記事も当サイトの現時点での認識を記したものであり、情報自体および情報を利用なされた結果(道迷いその他諸般)については免責とさせてください。


Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2010-07-02 22:36:26 (2590 ヒット)

(新しい横峠)

横峠の現在の車道を通ると、所々に旧道が豁然と口をあけている。そのことが気にかかっていた。

蓮ヶ峯から西南に派生した尾根が、上林川断層に沿って西方の下八田まで張り出しているため、国道27号線は八田と山家との間を味方経由で大きく迂回している。

しかし自動車以前の時代は徒歩での山越えも普通のことなので、横峠を用いることで大幅なショートカットが可能であった。

横峠は黒石峠や戸谷越と同じ尾根を越える峠である。

黒石峠や戸谷越が八田と上林を結ぶのに対して、横峠は八田と山家を結んでいる。

国土地理院の地図にも描かれている横峠の現在の道は、一定の緩勾配を保つよう設計され、林道に準じた近代的な作道である。

荷車などが越えることを想定して作られたものであろう。あるいは傾斜に弱い馬車や、大砲など軍事関係の重い機材が越えるような事情があったのかもしれない。

『山家村誌』(大正14年)によると、この横峠の道は明治20年の開鑿である(191頁)。ここでは便宜的に、これを横峠の車道ということにする。

国土地理院の地形図はラジオアンテナが立つ現在の峠に「横峠」と記している。

陸地測量部の二万分一地形図「山家」(明治26年測図明治28年製版)でも、車道の峠に「横峠」という標記がある。

現在の峠は尾根を数メートル切り下げて作られている。ここではこれを車道の峠ということにする。

車道の道と車道の峠で構成されるのがここでいう新しい横峠である。一般的には、この新しい横峠が、横峠として認識されている。

なお、美山の山森から福井県名田庄の中野へ越える峠として、横尾峠(横尾越)がある。尾根にたどり着いたあと尾根を横へスライドしてから越える峠であるが、綾部の横峠も同じく、尾根にたどり着いたあと尾根を横へスライドしてから越える峠であり、命名の共通性が感じられる。


(八田から峠へ)

安国寺町の交差点に足利尊氏の銅像があるが、その前のJR舞鶴線踏切は「山家街道」踏切という。

「山家街道」踏切 「山家街道」踏切


ここにいう「山家街道」は、横峠を越えるものと考えるのが自然である。

この交差点の南東、水田のある谷の途中から、旧道は舌状に伸びた丘陵端にとりつく。

このとりつく地点は、10メートルもあるかと思われるほど非常に深く切り下げられている。

横峠の安国寺側の取り付き(写真中央) 横峠の安国寺側の取り付き(写真中央)


横峠の安国寺側の取り付き 横峠の安国寺側の取り付き


古道はなだらかな尾根を進んでいくが、途中は篠竹が密生している範囲もある。

横峠の安国寺側の道 横峠の安国寺側の道


古道は標高180メートル付近、電柱の安国寺59番のあたりで車道をまたぐ。すなわち車道の下から車道の上へと移行する。そして車道より上を車道に並行して進んでいく。

車道より上を行く旧道 車道より上を行く旧道


標高200メートル付近が、中村(中山町)への分岐があったと思われるところであり、「右 梅迫田なへ 左 志加物遍」の道標の本来の位置と推定される。ここで等高線間隔が広くなっている。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351936&l=1351836

「右 梅迫田なへ 左 志加物遍」の道標は、現在は車道沿いにある。

「右・左」という道標は道の分岐点に立てられるものである。ところが現在の位置は古道の一本道の地点である。

車道以前の時代から現在の位置にあったと考えるよりは、古道の分岐点にあったと考えるのが自然である。古道の分岐点は現在の道標の位置よりも上の山の中にある。車道の開鑿後に、車道沿いに移設されたのではないだろうか。

なお「左 志加物遍」の道は中(現在の中山町)に降りる。車道の直下の部分は倒木で歩きにくいが、それ以外は深い堀切のよい道である。道幅は、田辺街道の道(安国寺からの道)と同じかやや細いくらいである。この道が田園に降り立つ直前の丘陵端に、畑なのか屋敷なのか、人工的に削平された広い平坦地がある。水平でなくやや傾いているので屋敷ではないかもしれないが、人工的な遺構であることは確かである。

寛政11年丹波国大絵図に横峠の記載があるが、その道は二俣に分かれている。

すなわち山家側は一本の道であるが、八田の側は「安国寺ノ内梅迫」への道とは「安国寺村ノ内中村」(現在の中山)の道に分かれるかたちで描かれている。

寛政11年丹波国大絵図に描かれているこの分岐が、安国寺ルートと中(中村)ルートを示しているものと思われる。

「右 梅迫田なへ 左 志加物遍」 「右 梅迫田なへ 左 志加物遍」


松雲院の碑 松雲院の碑


古道の推定分岐点の付近も、篠竹が密生している。

古道は安国寺77番の電柱のあたりで車道と合流する。あとは車道峠の直前まで、車道と大差ない位置についていたものと推察される。

現在の車道の峠の一角に紀甲堂(輝光堂、茶屋)跡地という看板の立っている地点がある。そのほかに「儀助茶屋」もあったはずであるが場所はわからない。

「紀甲堂」の看板のところには10m四方の平坦な台地があるが、この台地の平坦面がそのままただちに、紀甲堂の建っていた平坦面といえるかどうか。

ここは谷の頭であり本来の自然地形は凹んでいるはずである。現在の車道峠の切り下げなどで発生した土砂を埋積してできた台地であるようにも見えるからである。

「紀甲堂」の看板 「紀甲堂」の看板



(旧道の峠)

紀甲堂跡とされる平坦地の背後、尾根の北側に伸びる彫りの深い旧道があり、現在の峠より西南200メートルで尾根を越えている。

おそらくこの道が参勤交代にも使われた車道以前の旧道であろう。

紀甲堂跡とされる平坦地の背後では草が生え込んでいるが、しばらく進むと普通に歩けるようになる。

道は尾根の北側から南側へ、気づかぬほどスムースに移行する。尾根の分水界をまたぐのが峠であるとすれば、ここが峠である。

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351923&l=1351842

旧道が分水界を越える地点 旧道が分水界を越える地点


あるいは朝金におりる道は今の車道の峠の地点で分岐していて、2つの乗越のある複合的な峠だったかもしれない。

現在の車道を歩くことを基準にして、旧道との位置を比較すると、現在の車道峠から南に車道をたどり、車道沿いに展望のよい切り開かれた地点をすぎ、車道峠から500メートル付近で、綺麗に枝打ちされてシダが下生えしている植林の谷がある。

この綺麗な植林の谷の真上が旧道の横峠である。

旧道の標高だけを見ると、上記の尾根の北側から南側へ移行する地点よりも、ピーク240メートルの東側を巻く地点のほうが若干、標高が高いようにも思われる。

その意味では、分水界という意味での峠と、最高地点という意味での峠が、微妙に一致していないようでもある。

旧道の最高地点 旧道の最高地点


このあと旧道は、南に伸びる尾根の東側から西側に回り込んで、深い堀切となって進んでいく。

この堀切に並行するかたちで、尾根の上にもうひとつ、掘りの浅い道もある。

推測するに、これがさらに古い時代の道で、ある時点で、深い堀切への切り下げ工事が行われたのではないだろうか。それは交通量の増加に伴ったものかもしれないし、参勤交代の道となったことに伴ったものかもしれない。

旧道の深い堀切 旧道の深い堀切


旧道の深い堀切 旧道の深い堀切


道は尾根の上を南へと進んでいくが、しばらく行くと二俣にわかれる。この二俣の地点も、篠竹が密生している。

二俣の道のうち東へ行くものは、斜めに降りていって車道をまたぎ、旭町の小字峠のほうへ降りる。

東側へ降りていく道 東側へ降りていく道


片方は向きを西南に変えながら、長い尾根をさらに降りていく。こちらが京街道の本道と思われる。

峠の北側にも分岐があるし(「右 梅迫田なへ 左 志加物遍」)、南側にも分岐があることになる。そしてそのいずれもが今は篠竹に覆われている。

西南への道は車道をまたぎ、自動販売機のある交差点のほうへ降りていく。

旧道が車道をまたぐ地点 旧道が車道をまたぐ地点


植生は竹林に移行し、竹のなか、人の背丈の数倍ある深い堀切となっている。

竹の中をS字型に降りていく道 竹の中をS字型に降りていく道


S字型に何度か切り返すと、自動販売機のある交差点に出る。

荒れていて通常の間隔での歩行は容易でないが、横峠の旧道は幅も広く掘りも深い。京街道としての交通の多さや参勤交代の道としての重要さを物語るものであろう。

なお以上の古道をたどるには藪こぎの備えが必要であり、特に眼を負傷しないよう注意が必要である。(注:その後、古道は刈り払い整備された。)

横峠地図


【注】
これは暫定的な情報を記したものであり、さらに検証を続けることは課題です。このサイトの情報全般についても言えることですが、いずれの記事も当サイトの現時点での認識を記したものであり、情報自体および情報を利用なされた結果(道迷いその他諸般)については免責とさせてください。


Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2010-02-24 01:07:43 (3455 ヒット)



(1)報恩寺の名の由来

『丹波志何鹿郡之部』寺院ノ部に、「葛尾山福姓[ママ]寺 報恩寺村」という項目がある。

「往古ハ今ノ報恩寺谷惣高寺領ト云伝フト云 其比ハ当寺葛尾山報恩寺ト云 二百年斗中絶シテ本堂斗有之 寺号ヲ村名ニ唱フ」(綾部史談会版27頁)

とある。「報恩寺の筍」でも有名な「報恩寺」の名の由来は、「葛尾山報恩寺」なのかもしれない。

この項の全文を示す。

「一 葛尾山福姓寺 報恩寺村 東ノ葛尾谷ノ奥ニ 空也上人開基 真言宗丹後国加佐郡南山村 室尾谷山観音寺末 当寺寿命院有門 別ニ薬師本堂三間半四面南向ナリ 門前百姓一軒往古ヨリ有 境内山林田畑六反三畝五歩 御除地也 往古ハ此山ノ尾通リニ本堂跡石場多シ 今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡 谷水ヲ字ニアカノ水ト云所有 マタ東ニヂャウチウ坊(云)所アリ 今ノ本堂上ニ字正センナト云所有 往古ハ今ノ報恩寺谷惣高寺領ト云伝フト云 其比ハ当寺葛尾山報恩寺ト云 二百年斗中絶シテ本堂斗有之 寺号ヲ村名ニ唱フ 往古ノ釣鐘ハ今御室ニ有之 銘ニ何鹿郡ハサキノ庄葛尾山報恩寺ト有 当寺ヨリ人家エ七丁斗」(『丹波志何鹿郡之部』綾部史談会版27頁)


(2)現在の葛尾山福性寺

現在の葛尾山福性寺は報恩寺の多谷にある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352010&l=1351023

多谷の福性寺 多谷の福性寺


掲示があり、以下のように記されている。

「當山ハ人皇六十二代村上天皇ノ御宇天歴[ママ]七年[引用注:953年]京都六波羅蜜寺空也上人ノ開基ニシテ本村葛尾ニ七堂伽藍ヲ建立シ本尊藥師如来ヲ安置ス已来信徒相集マリ檀徒モ亦小畑鍛治屋報恩寺私市及川北ノ一部ニ亙リ寺門隆盛ヲ極メタリシハ史蹟ニ明カナリ時ニ保元平治ノ乱[引用注:12世紀]兵火ニ全焼シ後五ヶ年ヲ経十八畳一棟ヲ設ケ本尊而已ヲ安置ス此ノ間四百八ヶ年ノ久シキニ亙ル而シテ後文禄二年[引用注:1593年]越後ノ人良円亜闍梨図ラズ此地ニ来リ稀有ノ霊山ナルヲ惜ミ再建セリ今中興開山ト称ス 以来三百三十六年ヲ経タリ 今ヲ去ル百年来寺勢漸次衰ヘ明治維新以来愈々衰頽ヲ窮ム 顧フニ是他ナシ 時勢ノ該地ニ適セサルナリ 時ノ兼任明王院住職常観僧都ト檀徒一同此衰頽ヲ憂ヒ堂宇ノ移轉ヲ謀リ其筋ノ認可ヲ得而シテ後晝夜努力ヲ重ネ併セテ十方施主ノ浄財有志ノ助力ヲ受ケ本日ヲ以テ本堂庫裡及ビ土蔵等従来ノ儘ヲ移轉シ増工建築ヲ竣シテ本尊ヲ移シ安置ノ式ヲ了ス
昭和四年四月五日
葛尾山 福性寺 壽命院」

壽命院は『丹波志何鹿郡部』の寿命院に該当するものだろう。

また『丹波志何鹿郡之部』に報恩寺の昌宝寺について、「同村葛尾山ノ境内ヨリ引ト云伝フ」とあるから、昌宝寺も葛尾山に由来するものなのかもしれない。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351935&l=1351031

すなわち、
「一 隆永山 昌宝寺 曹洞宗 報恩寺村 在中西ニ 同村葛尾山ノ境内ヨリ引ト云伝フ 福知山久昌寺末 釣鐘アリ 本尊聖観音 同郡十四番ノ札所ナリ」(『丹波志何鹿郡之部』綾部史談会版27頁)


(3)山寺の道標

報恩寺の東、三坂峠の方向に進んでいくと、引田池の北岸に「右 おばた 左 山てら」の道標がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351944&l=1351057

「右 おばた 左 山てら」 「右 おばた 左 山てら」


「右 おばた」は小畑地区(三坂峠を越えて鍛治屋、ないし広義には袋峠を越えて小西)に至る道である。

「左 山てら」が、葛尾山福性寺を示しているだろう。

現在の車道は、この地点より200メートル東でY字型に分岐している。そのため現代の感覚では一見、道標の位置はこの車道のY字分岐の地点であるべきのように見える。

しかし陸地測量部の二万分一地形図「福知山」(明治26年測図、明治29年製版発行)では、山寺に行く道はこの池の北岸の地点から東北に、舌状の緩やかな丘陵を越えて進んでいる。すなわちここが山寺への分岐である。従って、道標の位置はここでよい。

「左 山てら」の道標から、古道は北北東に進んでいく。竹混じりの林の中を蕭々と越えていく一間幅の道である。

竹の丘を渡る参道 竹の丘を渡る参道


竹の丘を渡る参道 竹の丘を渡る参道


途中、道の北側が四角く削平されている。作業小屋かもしれないが、小規模な堂か何かがあったのかもしれない。

参道の北側の削平地 参道の北側の削平地


この道は聖と俗とをわかつトンネルであろう。この道をくぐり抜ければ真言の霊地である。


(4)葛尾山福性寺旧跡

谷を遡る農道の終点から谷沿いの歩道を詰める。左右に階段状の谷田の跡があり植林されている。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352008&l=1351108

『丹波志何鹿郡部』にいう「門前百姓一軒往古ヨリ有」もこのあたりにあったのだろうか。

谷沿いの道から東側に少し上がったところ、小規模な平坦地のうえに五輪塔の部品らしい丸石が転がっている。

丸石 丸石


さて少しだけ谷を上って二俣の合流点、標高120メートル付近に広い平地があるが、谷田にしては礫が多く、瓦の破片も散乱している。

ここに「葛尾山福性寺旧跡」の木製標柱が立てられている。

「葛尾山福性寺旧跡」の平坦地 「葛尾山福性寺旧跡」の平坦地


「葛尾山福性寺旧跡」の平坦地 「葛尾山福性寺旧跡」の平坦地


「葛尾山福性寺旧跡」の平坦地 「葛尾山福性寺旧跡」の平坦地


散乱する瓦 散乱する瓦


この地点で合流する西側の谷を詰めていくと谷沿いに棕櫚の樹が立っている。

「葛尾山福性寺旧跡」の西俣奥の棕櫚 「葛尾山福性寺旧跡」の西俣奥の棕櫚


次にこの地点で合流する東側の谷だが、国土地理院の地図ではこの谷に破線の道が描いてあり、標高190メートル付近に寺を示す卍が示してある。この卍の地点は急傾斜の谷の合流点であり、大きな寺が立地できるようなところではない。地図の通りに谷底の道があるわけでもない。

おそらく、陸地測量部の二万分一地形図「福知山」に描いてある福性寺の場所を、二万五千分一地形図作成時に現地確認なしで写したためにこのような描画になったのではないだろうか。

ただしこの卍の地点よりわずかに東、標高200メートル付近には5メートル×15メートル程度の小規模な平坦地がある。このことは後に記す。ここでいう平坦地の規模は直観的なもので、厳密に測定したものではない。以下同様である。


(5)尾根A

「葛尾山福性寺旧跡」の平地の背後、北側の尾根に続く道がある。これをここでは尾根Aとする。

「葛尾山福性寺旧跡」の背後の尾根道 「葛尾山福性寺旧跡」の背後の尾根道


尾根Aの道を進んでいくと少なくとも三段の平地がある。

ひとつは標高150メートル付近のもので、5メートル×2メートルほどの小さな平地である。

標高150メートル付近の小規模な平坦地 標高150メートル付近の小規模な平坦地


尾根の東側を切り返しながら上っていく道をさらにたどると、標高200メートル付近に二段の平地がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352013&l=1351108

標高200メートル付近の平坦地(上段) 標高200メートル付近の平坦地(上段)


標高200メートル付近の平坦地(上段) 標高200メートル付近の平坦地(上段)


標高200メートル付近の平坦地(上段) 標高200メートル付近の平坦地(上段)


標高200メートル付近の平坦地(下段) 標高200メートル付近の平坦地(下段)


二段のうち上のもののほうが下のものよりやや大きく、五輪塔の部品のように思われる石(丸い石や蓮華状の石)が散乱している。

丸石 丸石


蓮華状の石 蓮華状の石


『丹波志何鹿郡部』にいう「別ニ薬師本堂三間半四面南向ナリ」という記述が腑に落ちるようでもあるが、現時点ではこの地点は何の跡かわからない。


(6)尾根B

「葛尾山福性寺旧跡」の平地から東を見ると古道が切り返しながら尾根を上っている。これを尾根Bとする。

この上りはじめのあたりにも棕櫚の樹がある。

切り返す道の棕櫚の樹 切り返す道の棕櫚の樹


道は舌状の尾根をU字型に回り込み、ひとつ東側の谷に入る。

このU字型に回り込む地点は一間幅で彫りも深く、浄福に満ちた道である。

尾根を回り込む道 尾根を回り込む道


この「ひとつ東側の谷」の左岸、標高170メートル付近に5メートル×20メートルほどの小さな平坦地がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352010&l=1351115

左岸の小規模な平坦地 左岸の小規模な平坦地


この平坦地をすぎると道は切り返しながら尾根Bを這い上がっていく。

急傾斜の斜面であるためヘアピンの道の一部分は崩落している。

尾根上に複数の平坦地が目に入るが、さらに古道をたどっていくと標高230メートル付近に相対的に大規模な20メートル×30メートルほどの平坦地がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352015&l=1351115

一番上の大きな平坦地 一番上の大きな平坦地


一番上の大きな平坦地 一番上の大きな平坦地


一番上の大きな平坦地 一番上の大きな平坦地


一番上の大きな平坦地 一番上の大きな平坦地


空山の山頂から南西270メートル、国土地理院の地図上で広葉樹林の記号のある地点である。

等高線が舌状に飛び出している。

この地点は事前の空中写真閲覧により、何かあるので要チェックであるという印象を得たところであった。

平らにならされた石が転がっており、柱の礎石と思われる。

礎石らしい石 礎石らしい石


礎石らしい石 礎石らしい石


礎石らしい石 礎石らしい石


礎石らしい石 礎石らしい石


上に「卍の地点よりわずかに東、標高200メートル付近には5メートル×15メートル程度の小規模な平坦地がある」と記した。

これは「礎石のある一番上の大規模な平坦地」の西側の下にある。

国土地理院の地図における卍をめざして破線の道をたどるとこの地点に達する。

しかし実際的には、上記の「礎石のある一番上の大規模な平坦地」から西へ降りたほうがよい。

この地点には白い茶碗の破片が落ちていたが、比較的新しく思えた。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352015&l=1351113

礎石のある平坦地の西下の小規模な平坦地 礎石のある平坦地の西下の小規模な平坦地


白い茶碗の破片 白い茶碗の破片


従って「礎石のある一番上の大規模な平坦地」から見ると東側の下には標高170メートル付近に小さな平坦地、西側の下には標高200メートル付近に小さな平坦地があるといえる。

この大規模な平坦地から下には、尾根上に多数の平坦地が連続している。

先に、道は舌状の尾根をU字型に回り込み、ひとつ東側の谷に入ると記した。

話を戻して、U字型に回り込む標高約150メートルの地点から、東側の谷に入らず尾根上をそのまま上ると、尾根道があり、連続する平坦地があらわれる。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352007&l=1351111

そして階段状の尾根は先ほどの大規模な平坦地まで続いているのである。

『丹波志何鹿郡部』に「往古ハ此山ノ尾通リニ本堂跡石場多シ 今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡」とあった。

直観的には、礎石のある一番上の大規模な平坦地が本堂跡のように感じられる。

そして「尾通リ」に連続する平坦地の数は、数え方にもよるが13個あるから、「十三堂跡」と合致するように思える。

実にこの一連の寺跡の圧巻は、尾通りの十三堂跡である。

上っても上っても次から次に平坦地があらわれる。

下から三番目の平坦地 下から三番目の平坦地


直線状の尾根の標高170メートルから標高230メートルまで、平坦地が直列して樹林に埋もれている。

この尾根は山麓の報恩寺からも遠望することができる。

空山山頂(右上)と十三堂の尾根(中央) 空山山頂(写真中央上)と十三堂の尾根(写真中央)


空山山頂(右上)と十三堂の尾根(中央) 空山山頂(右上)と十三堂の尾根(中央)


心象のなかでこの尾根のイメージから樹木を取り払い、そして十三堂の面影を投影する。

吉野山のように、空山の中腹に堂宇が畳み重なる壮観が見られたことであろう。

「往古」はこちらの尾根が、葛尾山の寺院のメイン部分だったに違いないと思わせるものがある。

ただし「今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡」の「今ノ寺」というのが木製標柱の立っている「葛尾山福性寺旧跡」のことだとすれば、「今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡」は「今ノ寺ヨリ東ニ十三堂跡」であってほしい。

『丹波志何鹿郡部』の時点での「今ノ寺」は尾根Bより東にあったのか、それとも「十三堂跡」の認識が誤っているのか、『丹波志何鹿郡部』の記述の西と東が違うのか。

「今ノ寺」と「十三堂跡」の位置関係の問題は課題である。

以下の点も地元でなければわからないことである。

・「有門」の門の場所
・「別ニ薬師本堂三間半四面南向ナリ」の場所
・「門前百姓一軒往古ヨリ有」の場所
・「谷水ヲ字ニアカノ水ト云所有」の場所
・「東ニヂャウチウ坊(云)所アリ」の場所
・「今ノ本堂上ニ字正センナト云所有」の場所

アカノ水のアカは徒然草に「閼伽棚」という言葉が出てきたり英語でも水に関係する言葉としてaquaがあったりするが、水を示すサンスクリットに由来するものだろう。

多谷福性寺の掲示をもとに簡単な年表を下に整理しておく。

三坂女郎の悲劇は1559年(および1579年)であった。
http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=155
http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=176

良円亜闍梨の中興開山は1593年だから、三坂女郎の悲劇の時点では、葛尾の寺はおそらく荒れていたのだろう。

この記事の冒頭に動画を示した。前半2分が尾根A、それ以降が尾根Bの記録である。


【年表】

953(天暦7年)
「當山ハ人皇六十二代村上天皇ノ御宇天歴七年京都六波羅蜜寺空也上人ノ開基」(多谷福性寺掲示)

1156……保元の乱
1159……平治の乱
「時ニ保元平治ノ乱兵火ニ全焼シ後五ヶ年ヲ経十八畳一棟ヲ設ケ本尊而已ヲ安置ス此ノ間四百八ヶ年ノ久シキニ亙ル」(多谷福性寺掲示)

1593(文禄2年)
「文禄二年越後ノ人良円亜闍梨図ラズ此地ニ来リ稀有ノ霊山ナルヲ惜ミ再建セリ今中興開山ト称ス」(多谷福性寺掲示)

1929(昭和4年)
「本堂庫裡及ビ土蔵等従来ノ儘ヲ移轉」(多谷福性寺掲示)


【注】
これは暫定的な情報を記したものであり、さらに検証を続けることは課題です。このサイトの情報全般についても言えることですが、いずれの記事も当サイトの現時点での認識を記したものであり、情報自体および情報を利用なされた結果(道迷いその他諸般)については免責とさせてください。


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