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1.廃寺巡礼
1.廃寺巡礼 : 嶽山の向こうに寺の跡を探しに行く(その1)
Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2009-06-02 21:07:45 (3653 ヒット)

【追記】この記事に当初記していた、建物跡と弁天社跡地とは別でした。地元の心ある方からのご指摘をいただきました。ありがとうございました。「光明寺」「龍尾寺とその礎石」「歌を彫た石像」「明治廿九年の山崩」「天狗岩」などにつき、口頭伝承に詳しい地元の皆様の手で特定と整理、情報発信が行なわれることを期待しています。

⇒弁天社跡を確認後の記事:
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=25

(以下のブログ記事を参照のこと。「南の谷」に瓦や瓶、茶碗があったのは住居跡らしい)
http://fv-ayabe.jp/shiga/2009/07/20/


(1)嶽山

志賀の嶽山三角点369メートルは坊口と西方との間にあるが、その北方500メートルにある標高点381メートルのほうが高い。

ここでは三角点369メートルと標高点381メートルとにはさまれ、市原谷の源流部をなしている約500メートル四方の一帯について、通常は嶽(だけ)と呼ばれるため屋上屋ではあるが、台地状の地形に着目して嶽山台地と仮に呼びたい。

嶽山台地は独特の地形をもった容貌魁偉な山である。

東西南北の四辺とも、等高線の密集した切り立った斜面である。

一方で台地の頂上部は等高線間隔が開いており、浸食され残した準平原を思わせるなだらかな地形である。

四角い箱を置いたような地形であり、大袈裟ではあるがテーブルマウンテンを連想させる。

嶽山台地には2つの主な谷があり、ここでは「北の谷」「南の谷」とする。いずれも源流部の勾配は緩やかである。

嶽山台地の中心部には標高約370メートルのピークがあり、北の谷と南の谷はその周囲を丸く取り囲むように流れている。

いわばカルデラ火山のような様子である。

ところが北の谷も南の谷も、途中から急転直下に勾配が急になり、絶壁のような斜面を流れくだっている。

地図のみからでも、この付近が滝を含む急流となっていることは確実である。

これは浸食作用の及び具合と関係していて、源流部には緩やかな勾配が残っている。

参照事例として、丹後由良の西、板戸峠の東北に廃村「嶽(だけ)」がある。

由良ヶ岳の尾根が北西に延びて栗田湾に落ち込む手前で、尾根が広くなり、標高250〜300メートル付近に袋状の緩やかな谷底がある。

この広い谷の水を集めた川は、標高250メートル付近で勾配が急になり、急傾斜で西に流れ落ちている。

地形的特徴が同様であり、しかも同じ嶽(だけ)という地名もついている。

大江町教育委員会『大江ふるさと学』2002年、95頁「市原谷」では、「「ダケ山」は各地にあるが、神のいる山の意味で、その神は先祖神で、ときに山の神となり、田の神ともなる。」としている。

楠原佑介・溝手理太郎『地名用語語源辞典』東京堂では、「だけ」(岳・嶽・嵩)の項で、
(1)山。山岳
(2)北アルプスの山々の称
(3)信仰と関係ある山の称
(4)絶壁。がけ
(5)岩石の露出した山
(6)岩の砕片まじりの崩土
を挙げている(それぞれどの地方の方言かが併記されているがここでは略した)。

ここでいう嶽山台地も、ここに挙げられた特徴の多くのものを備えた山といえるだろう。

急峻な崖をともなう巍莪たる山で信仰の対象でもある、といったまとめにならないだろうか。

嶽山台地のピーク約370メートルの西の斜面は地すべり地形である(地すべり地形分布図データベース)。
http://lsweb1.ess.bosai.go.jp

袋状の急な谷の全体が浸食のフロントであるように思われ、地すべりの存在は自然である。

西の斜面が円弧状に崩落している様は、地図よりもむしろ空中写真によって明瞭に把握することができる。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-6/c36a/ckk-75-6_c36a_27.jpg

明治維新からあまり時間を隔てていない明治26年(1893年)測図(明治29年製版)の陸地測量部二万分一地形図には、ここでいう嶽山台地の「北の谷」と「南の谷」に水田が描画されている。

これは昔の人が、源流部の緩やかな谷底を利用して稲作をしていたことを示す。

市原谷は志賀の谷ほど広闊ではない。少しでも耕作面積を増やすためであろうが、市原谷の標高30〜50メートルに対してこの付近は330〜350メートルで、300メートルの標高差がある。長い山道を通うことは大変であったろう。

なお坊口の人が耕作していたという情報もある。坊口の標高は80〜100メートルで、標高差は250メートル。時代別に耕作主体を確認する必要がある。
http://fv-ayabe.jp/shiga/2009/07/20/

これは隠田ではなかったかという思いも浮かんでくる。

浸食され残した源流部のあと谷の勾配が急変して急流になっているという感じは、市内では他にたとえば君尾山や、菅坂峠と養老山の間(八代峠の西)、古屋の北東(天狗畑山頂の西1キロメートル)、橋上と武吉の間などにその例を見る。

このほか草壁の東、大岩の北にある三角点442メートルと、三角点579メートルの間にも袋状の緩やかな谷の源流地帯がある。そして明治の陸地測量部二万分一地形図では、谷の勾配が急変する前の緩やかな谷底(標高360メートル付近)に水田が描画されている。これも嶽山台地と似た状況である。

市外では、たとえば芦生の中ノツボである。この谷の上流は緩やかであるが途中からは急勾配であり、近づいてはならない。

嶽山
嶽山を市原谷の方向から眺める。頂上部はなだらかな地形で、手前の谷が急激に切れ込んでいる。
頂上部の左が「北の谷」右が「南の谷」そして向こう側に見えるのが志賀郷地域である。
(Google Earthによる)


(2)滝蔵山光明寺

『大江町誌通史編上巻』(1983)に「市原滝蔵山光明寺」という項目の記述がある。

「「寺社町在旧記」に、「市原谷に滝蔵山光明寺という真言の大伽藍の跡あり。今は弁財天を安置す。」との記事がある。これを裏付けるものに明和、天明、寛政(一七六七−一七九三)へかけて紛議のあった市原山論の当時、訴訟資料にされた市原絵図がある。この図面の小原、丹波、市原の境界となる山上に弁天社が記入されている。(芦田家蔵)この光明寺はいつのころか綾部市坊口の長松寺へ移築されたとされるが、同寺の境内仏堂に滝蔵山金剛寺がある。同じ滝蔵山を称するのは、市原からここに転身したのではないか。弁財天は今、市原区の氏神境内に祀られている。」(706頁)

対応する『丹後國加佐郡寺社町在旧記』の原文(舞鶴の図書館に複写がある)は、「市原谷芦田氏代々拝領之地滝蔵山光明寺真言大伽藍之跡有今ハ弁才天を安置す」である。

「真言」とあるが長松寺は現在は曹洞宗である。

かつての寺の跡に何かを祀るという点では、美山の聞法寺跡に、毘沙門天がまつられている。

すなわち『北桑田郡誌』明治37年=1904年の聞法寺に関する記述に「其寺跡ニハ今毘沙門天ヲ祭レル一小宇アリ」とある。毘沙門天に対して、こちらは弁財天(サラスヴァティー、水の神)である。

以下のように《推測》したい。

《……「滝蔵山」の「滝」は嶽山台地から西に流れくだる急な谷に関係している。「小原、丹波、市原の境界となる山上」すなわち嶽山台地のどこかに寺があった。山頂の寺の全体ないし一部分が長松寺に移転した。長松寺は現在は曹洞宗であるがそれは最初からでなく途中で曹洞宗に変わった。山上の寺自体はなくなったが、江戸時代の絵図に記されているように弁天社があったのは、かつて山上に寺があったことにちなんだものである……。》

上記の陸地測量部二万分一地形図には、嶽山台地の「南の谷」に建物がひとつ描画されている。

・芦田家文書の市原絵図(18世紀後半)で山上に弁天社が描かれている

・陸地測量部2万分一地形図(1893年)で山上に建物が描かれている

この2つのことを考え合わせてみると、陸地測量部2万分一地形図に描かれた建物は弁天社ではなかろうかという仮説を立て、大路峠を経て嶽山台地を見に行った。

結果的にこの「南の谷」の建物に関する仮説は成り立たなかったが(続報を参照)、記録として以下に記す。


(3)大路峠

坊口の奥の谷から大路峠(小原峠)をめざした。上がり口には「右たなべ道 左やま道」の石仏兼道標がある。ウサギがあらわれ、しばし立ち止まったあと逃げていった。

「右たなべ道 左やま道」 「右たなべ道 左やま道」


ウサギ ウサギ


荒れていない広い道で、斜面を何度も切り返しながら、まもなく大路峠に達した。

大路峠(小原峠)への道 大路峠(小原峠)への道


大路峠(小原峠) 大路峠(小原峠)


峠の南側はすぐに下降する斜面であるが、北側は仏堂や茶屋があったとしてもおかしくない削平されたような平地となっている。

峠から西の尾根に向かう。藪を懸念していたが、むしろ0.5〜1メートル程度の深さの道があり、よく歩かれていたことを感じさせた。

大路峠の西の尾根の道 大路峠の西の尾根の道


大路峠の西の尾根の道 大路峠の西の尾根の道


尾根を進むうち道の彫りは明瞭でなくなったが、尾根を辿って標高点381メートルに至った。

標高点381メートルに至る手前のあたりで、赤岩山の中腹の地すべり地形上に拓かれた山上の集落・西方寺平が見えた。

山上の集落・西方寺平 山上の集落・西方寺平


標高点381メートル付近 標高点381メートル付近



(4)北の谷

標高点381メートルの西の尾根には明瞭な道がついていた。

381メートルの西の尾根の道 381メートルの西の尾根の道


381メートルの西の尾根の道 381メートルの西の尾根の道


標高点381メートルの200メートル西の地点から、「北の谷」におりた。尾根と谷のあいだはぬた場のようになっていた。

尾根と谷のあいだのぬた場 尾根と谷のあいだのぬた場


北の谷におりると、泥の湿地となっており、下手に踏み込むと足を吸い込まれて身動きがとれなくなりそうな懸念を感じさせた。

藤森栄一の経験のことを連想した。藤森は富山県小杉町太閤山の遺跡で、底無しの泥沼にはまり込んだ。

「—しまった—ぐっと足をとられて、思わず二歩三歩、前進したのがなお悪かった。たちまち腰まではまりこんで、足にあたるものはなかった。—これはダメだ—その瞬間、ふと一つの光景が浮かんだ。それは思いもかけぬ遠いボルネオでのことだった。小銃を高々と支え、そのまま沈んでいった戦友と、背に負った機銃身の重さで、足をとられ、水平に倒れたために、首と手足が出て助かった兵隊のちがいだった。私はとっさに、腹ばいになった。—騒ぐな騒ぐな—急いではいけない。私は静かに泥を掻いた。顔も背もリュックサックも、見わけのつかない泥だった。しかし、私は岸に上がれた。」(藤森『古道』講談社学術文庫版1999、81〜82頁)

もちろん、こちらは水田跡である。もし本当の底無しであれば田植えもできなかっただろう。とはいえ、自然の状態に還っているこの谷底に屈託無く脚を踏み入れる気にはなれなかった。泥の上に横たわっている倒木の上を渡り、谷の岸の斜面にしがみつきながら進んだ。

北の谷の水田跡 北の谷の水田跡


北の谷の水田跡 北の谷の水田跡


北の谷の水田跡 北の谷の水田跡


谷底には階段状に何段もの段がついており、水田の畦の形状の名残らしかった。

北の谷の水田跡(段になっている) 北の谷の水田跡(段になっている)


さらに谷底をくだると予想通り谷が絶壁となって落ちており、滝があった。

先程の比喩でいえば、テーブルマウンテンから流れ落ちている滝である。

そしてぎりぎり滝の真上までが水田跡らしき湿地なのだった。

北の谷の端の崖 北の谷の端の崖


北の谷の端の滝 北の谷の端の滝


切り返して谷底を遡った。狭い谷に水田跡の段が続いていたが、最上部は菖蒲の類の植物と杉が生えている湿地であった。今となっては訪ねる人も少ない山中の小さな湿原だった。

北の谷の源流の湿地 北の谷の源流の湿地


北の谷の源流の湿地 北の谷の源流の湿地



(5)中央のピーク

北の谷から標高点381メートルに戻ったあと、嶽山台地中央部にあるピーク約360メートルおよびピーク約370メートルに向かった。381メートルと360メートルの間の鞍部は、北の谷と南の谷の接するのびやかな地形の鞍部であった。

381メートルと360メートルの間の鞍部 381メートルと360メートルの間の鞍部


360メートルの頂上は小屋一軒分ほどの面積が平らにならされていて、何かが建っていた歴史があるとしてもおかしなくないと感じられた。それに比べると370メートルの頂上の平地にまとまった広さはなかったが、予想よりも広々とした印象を与えた。

標高360メートルの頂上 標高360メートルの頂上



(6)嶽山

綾部・大江・舞鶴の三つの行政界の地点から境界尾根を南に進んだ。尾根の西側に明瞭な道がついていて、「南の谷」を右下に眺めながら進むことができた。

(※結果的に、この尾根のユリ道を使わず谷底をそのままくだれば、谷底の弁天社跡をすぐに認識できたはずなのだった。)
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=25

「南の谷」の源頭のぬた場 「南の谷」の源頭のぬた場


「南の谷」の源頭 「南の谷」の源頭


「南の谷」の源流に沿う尾根道 「南の谷」の源流に沿う尾根道


やがて坊口からの道が左からあがってきた。最後の急坂を登ると嶽山の山頂であった。複数の小突起があったが、そのうちのひとつに三角点を見いだすことができた。

いわば「カルデラ」の「外輪山」の一角がこの山頂だった。

嶽山山頂の南斜面 嶽山山頂の南斜面


嶽山山頂の三角点 嶽山山頂の三角点


嶽山三角点の東、境界尾根の西を南から北へと流れる谷の底はゆるやかな畑のようで、ここも何段階にも段がついていた。畑の跡か何かではないかという想像も浮かぶのだった。

国土地理院の地図では、嶽山三角点の東側で、綾部市の境界が分水界を超えて大江町の側に食い込んでいる。この行政界と分水界の不一致はご愛敬なのか本当なのか分らない。

嶽山三角点の東の谷 嶽山三角点の東の谷


嶽山三角点の東の谷 嶽山三角点の東の谷


嶽山三角点の東の谷(段になっている) 嶽山三角点の東の谷(段になっている)



(7)南の谷

南の谷の本流におり、西へ進んでいく。こちらにも段を伴った水田の跡があらわれた。

やがて竹が目に入るようになり、谷底には御飯茶碗や複数の一升瓶が転がるようになった。

「南の谷」の茶碗 「南の谷」の茶碗


「南の谷」の一升瓶 「南の谷」の一升瓶


「南の谷」の一升瓶 「南の谷」の一升瓶


そして右岸にせり出した高台に、沢山の瓦が転がっていた。嶽山三角点の真北150メートルの地点である。

ここが陸地測量部2万分一地形図に描かれた建物の跡であり、なおかつ大江町誌にいう弁天社の跡と考えた。

(※実際には弁天社跡は別の地点にあった。)
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=25

「南の谷」の瓦 「南の谷」の瓦


「南の谷」の瓦 「南の谷」の瓦


瓦や瓶の転がる地点 瓦や瓶の転がる地点


こちらの谷は北の谷よりは大きいとはいえ、一枚の田で谷の幅を占めれば充分という幅であった。ウツギが花を咲かせていた。

『京都府の地名』(平凡社日本歴史地名大系第26巻1981年)655頁に指摘があるように、『滝洞歴世誌』寛文五年(1665年)のところに、市原などの隠田問題に関する記述がある。

「乙巳五年…[略]…三州岡崎城主水野監物様ヨリ御為者大田兵左衛門と云者田邊ヘ参一原瀧宇呂奈良原三ヶ所六百石隠田有之検地可仕由岡崎ヘ告ル因茲一原検地有其時一原瀧洞御印之写上ル又岡崎ヘ持参ル時ニ御赦免之御判有之上ハ不及子細と相済大田兵左衛門改易寺社領御手(朱)印御改有」(舞鶴市西図書館所蔵の複写)

市原、滝宇呂、奈良原はいずれも狭い谷奥で耕地面積は多くない。隠田があるので検地するという話になりつつ結果的に「不及子細と相済」になったとのことで、『京都府の地名』は「隠田摘発の一件が事なきを得ている」とまとめている(655頁)。この嶽山の谷との関係は不明だが、注意を引くエピソードである。

南の谷の水流 南の谷の水流


ウツギ(卯の花) ウツギ(卯の花)


こちらでも緩やかな源流部の終わりまで来た。谷は滝となって急斜面を流れ落ちていた。

南の谷の滝 南の谷の滝


南の谷の滝 南の谷の滝


陸地測量部2万分一地形図では、坊口から「南の谷」に越えてきた道はこの急斜面を切り返しながら降っている。

地形からして、広く緩やかな道をつけることはできず、崩れやすい急坂であったと想像できる。大変な道であったに違いなく、今となっては崩落して道は失われている可能性のほうが高いだろう。

滝の横の岩壁 滝の横の岩壁


遷急点の直下に降りて西を眺めた。谷の底が崩落して抜けたかのように、市原谷の展望が豁然とひらけ、三河の家々の向こうに北原の城山(日浦ヶ岳)が鋭くそびえる。そして赤石岳と千丈ヶ岳が悠然かつ堂々と横たわっていた。

市原谷から大江山への展望 市原谷から大江山への展望


市原谷から大江山への展望 市原谷から大江山への展望


スイスのU字谷を源流部から眺めるかのような展望であり、滝の存在をあわせると、まさに霊場としての条件がそなわっていることを感じることができた。

ここに寺の立地を見いだした人は、那智大滝の頭に立っていることを連想できる場所として、この嶽山台地を選んだのではないか、ということまで想像が飛ぶのだった。

水田跡の左岸の岩壁 水田跡の左岸の岩壁


水田跡の左岸の岩壁 水田跡の左岸の岩壁


水田の畦が、田の地域と同様、石積みで施工されているのを確認しつつ、瓦や瓶の転がる地点に戻った。

水田跡の石積 水田跡の石積


南の谷の湿地 南の谷の湿地


茶碗や一升瓶の新しさから受けた印象では、この地点は昭和まで人が出入りしてきたような節があった。

散乱する瓦 散乱する瓦


散乱する瓦 散乱する瓦


付近には茶のような木や茗荷が自生していた。

瓦や瓶の転がる地点 瓦や瓶の転がる地点


瓦が一番多く転がっている右岸の高台のほかに、その上流側に広い平地があった。

瓦や瓶の転がる右岸の高台に隣り合う平地 瓦や瓶の転がる右岸の高台に隣り合う平地


瓦や瓶の転がる右岸の高台に隣り合う平地 瓦や瓶の転がる右岸の高台に隣り合う平地


南の谷をさかのぼって境界尾根に戻り、往路と同じ尾根を経て大路峠から坊口におりた。峠の坊口側の道では途中複数の地点に、炭窯の跡かもしれない窪みがあった。

大路峠 大路峠


大路峠から坊口への道 大路峠から坊口への道


大路峠の道沿いの窪み 大路峠の道沿いの窪み


この日、嶽山台地では至るところにギンリョウソウが咲いていた。また山椒も多く見られ、つかむたびに鋭い香りを漂わせた。

市原谷は田辺藩主に毎年、山椒百斤を年貢として納めることになっていた(『舞鶴市史史料編』1973年、497〜498頁)。山椒が特産物であったことを推測させる話だが、事実この山には山椒が多かった。

ギンリョウソウ(標高381メートルの南斜面) ギンリョウソウ(標高381メートルの南斜面)


山椒(「北の谷」) 山椒(「北の谷」)


西方の宝満寺は有路から山を越えて西方に移動してきた。坊口の長松寺も嶽山の向こう側から坊口に降りてきたかもしれない。山越えの文化というようなことについて、この嶽山の事例からも考えさせられるのだった。

なお『大江町誌通史編下巻』(1984)は『丹後國加佐郡町村誌』(明治11年=1878年)を要約紹介している。市原谷に関することとして、
「古跡・廃寺址(礎石アリ龍尾寺と云フ)」
という情報がある(大江町誌通史編下巻34頁)。

対応する『丹後國加佐郡町村誌』の原文は「古跡 廃寺址 村ノ東方字嶽ニアリ土人云正暦ノ頃此地ニ龍尾寺ト云巨刹アリシト今尚礎石ヲ存ス」である(京都府立総合資料館蔵)。

また『加佐郡誌』(大正14=1925)にも、市原谷に関して
「村の東方の山に古跡廃址がある。土地の人傳へ言ふ「正暦の頃此處に龍尾寺といふ巨刹があつた」と。」(158頁)
とある。

ここで龍尾寺という名前は滝蔵山光明寺とは異なっているが、ここで議論している山上の寺とどういう関係だろうか。

(参考:大江町教育委員会『大江ふるさと学』2002年、95頁「市原谷」において、「竜尾」に「たつお」のルビがついている。)

上記の『丹後國加佐郡町村誌』には「市杵嶋姫神社」に関する記述もある。「市杵嶋姫神社 社地東西十二間五分南北七間五分面積四十坪村ノ東方字嶽ニアリ市杵嶋姫命ヲ祭ル傳云正暦二年辛卯ノ創立ナリ祭日七月廿日」とある。

この市杵嶋姫神社については、市杵嶋姫が弁才天と同一視できることから、上で議論してきた弁天社のことと解釈できる。

龍尾寺の「正暦ノ頃此地ニ龍尾寺ト云巨刹アリシト」と、市杵嶋姫神社の「傳云正暦二年辛卯ノ創立ナリ」の「正暦」は一致している。寺の跡に後から弁天社ができたという前提で議論してきたが、最初から弁天社があったのだろうか。


【参考】
『志賀郷村誌』(昭和30=1955)に以下の記述がある。
「滝倉山金剛寺
 坊河内村と市原村即ち丹波丹後国境に七丘七岳の盆地がある。その地形は宛然高野山を圧縮したような土地である。昔此地に何鹿郡西国第廿五番札所滝倉山金剛寺が存在していた。此附近を一括して「ダケ」と呼んでいるが岳、丈、長の義で「高」の転語であり、「タキ」滝は高の類語で此高い盆地から、水が低きに流れるから滝倉山の名ができたのであろう。此盆地の一角に小さな池があつて其中に石垣を結い橋を渡し辨財天が祭られ古寺の跡をのこしておる。此寺の本尊准捉観世音はとつくの昔下山になり今は坊河内の観音山に在わすのである。
 此寺跡に伝説の歌を彫た石像が立つていたが明治廿九年の山崩に埋れ去つた。其歌は
  行けば左戻れば左、朝日輝き夕日照す、
     櫨の木の下に、黄金千両。
 この歌は解繹不明の謎と言われているが其意味は、行けば左戻れば左という地点は平面的には考えられぬことで之は立体的に考えるならば、左に川を見て川口を行くと水上に遡るわけで、その水上から川を左に下ると出発点に皈るので結局「川上」の意である。次に朝日も照り夕日も仝じように照す土地は高山の頂であるので、此二句は川上の高い所を暗示するのである。その川上の山頂に櫨の木が生えていて其下に黄金が埋めてあるという謎である。滝倉山金剛寺縁起によると、
 昔この山に大山火事が起り金剛寺の伽藍を烏有に化した。その大山火事による火焔裏を本尊の観音様が何れにか飛去つて行方が知れなくなつた。この現象を見ていた人たちは八方手をつくして霊仏の行方を求めたが発見することができなかつた。或信心の人が辨財天に参籠して宣告によつて此謎の歌を暗示されて本尊の在所を知ることができた。その所を村の人は天狗岩と名付けている。これが縁起の大要であるが郡西国札所の故実としつくりしない物語である。
 惟うに平安末期から宋銭密輸入が盛になり国内に種々な弊害が発生したので、政府は其取締を厳重にしたことがめる。古来志賀の里人は丹後の由良と交易した歴史が長いから、何人かゞ此霊場に宋銭を埋隠して此謎をのこしたものであるまいか。」(297〜298頁)

ここでいう嶽山台地について「宛然高野山を圧縮したような土地」としている。確かに高野山も山上の緩傾斜地である。また高野山には複数の弁才天が祀られており、そのひとつは「嶽弁才天」である。嶽山台地にかつて真言の寺院が立地し、弁才天が祀られていたのは、高野山のアナロジーなのかもしれない。
http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/hisite/7benten/dake/dake01.html

※ここで記述している複数の谷の滝(谷の勾配が急変する地点)に近づいたり、滝の下に行ったりしないでください。また湿地に足を踏み入れないで下さい。いずれも危険です。


【注】
これは暫定的な情報を記したものであり、さらに検証を続けることは課題です。このサイトの情報全般についても言えることですが、いずれの記事も当サイトの現時点での認識を記したものであり、情報自体および情報を利用なされた結果(道迷いその他諸般)については免責とさせてください。


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