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3.地理
3.地理 : 谷奥の宇宙−小畑の峠は山上のインターチェンジ
Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2009-06-23 02:48:41 (2614 ヒット)

この記事では小畑地区の峠について記す。

(1)この先行き止まりです

一般に「この先行き止まりです」という看板を見ることは少なくない。

ところが実際には行き止まりでなく、峠道を歩けば山の向こうに越えられる。

行き止まりでなく道があるのに、なぜ「行き止まり」なのだろうか。

「この先行き止まりです」というのは、自動車が通れないことを意味しているらしい。

「この先自動車のためには行き止まりです」というほうがまだよいだろう。

自動車が通れないだけのことで、「この先行き止まりです」となってしまうのは、「自動車が全て」「車道が全て」という前提条件があるからだ。

昔は違った。車輪が中心の時代でなく脚が中心の時代。

道は谷を詰め、尾根を越えて向こう側の空間に通じていた。

(2)道標の示す宇宙

小畑公会堂の前に2点の道標が移設されている。

1点は「こうもり むろたに」とあり、あと1点は「右 山ミち 左 こうもり」とある。

小畑の道標「こうもり むろたに」 小畑の道標「こうもり むろたに」


小畑の道標「右 山ミち 左 こうもり」 小畑の道標「右 山ミち 左 こうもり」


いずれにも「こうもり」(河守)が出てくる。

小畑から宗峠(そうとうげ、惣峠)を越え、奥山、尾藤を経て河守に至る道筋である。

移設前は、道標の前者は小畑大池堤防の南端付近にあり、後者は小畑大池堤防の北方にあったと考えると辻褄が合い、自然である。

小畑大池堤防の南端付近から、前者の道標に従い右折して堤防を北に進み、「こうもり」方向に行けば、引き続き後者の道標に出会う。

後者の道標の「山ミち」を選ばず、左の「こうもり」方向に行けば、宗峠を経て河守である。

一方、前者の道標の「むろたに」方向に行けば金谷峠を経て室尾谷である。

河守や室尾谷を目指す場合、自動車を前提とすれば、小畑は「行き止まり」の空間であろう。

だが昔の道標は「行き止まり」と書くことはない。

もちろん「村みち」も「山みち」もあるが、道標に導かれて然るべき方向に進んでいけば、たとえば「こうもり」に、あるいは「むろたに」にたどり着く。

いま、小畑から室尾谷観音寺に自動車で行こうとすると、北回りでも南回りでも12キロメートルほどかかる。

一方、山を越えれば4キロメートルである。(ここでは小畑大池付近を起点として測定した。)

袋状の土地ではあるが、いわば袋に扉がついていて、「どこでもドア」を開けるようである。

小畑から山の向こうには、奥山、奈良原、室尾谷、山野口、報恩寺の集落があり、いずれも山を越えて行くことができる。

小畑の峠 小畑の峠


(3)宗峠(惣峠)

小畑大池の北東の尾根は、春には躑躅の揺れる尾根であり、標高点315メートルを経て宮ヶ嶽332メートルに至ることができる。

宮ヶ嶽に至る尾根の躑躅 宮ヶ嶽に至る尾根の躑躅


宗峠に行くには、この尾根でなく小畑大池の北西の谷に入る。一番下の谷底には入らず、左岸の斜面を進む。

道は左岸から右岸に移る。この移るあたりが荒れてわかりにくいが、移ったあとは切り返しながら高く登っていく。

幅の広い立派な道である。

峠に近づくと、道は複数に分流するが、そのいずれにも尾根を何メートルも深く刻んだ堀切がある。

この深い堀切を見ると、峠はまもなくであり、宗峠に達する。

峠自体も、明らかに尾根を切り下げていることがわかる。

金久昌業『北山の峠』(下)が大栗峠の弓削道について書いたことが思い出される。

「この弓削側の尾根道の特長は、道が堂々と立派なことである。整備された立派さではなく、踏み込まれた高い格調と歴史の貫禄である。放置されてから久しいのにそんなに生え込みもせず、道形も殆ど崩れてはいない。中間の突起を越す部分などには道巾が狭くなったりするところもあるが、その他は概ね車馬が行き来したと思われるような大きく掘れ込んだ道が尾根を曲折して貫いている。この道は樹木の美よりも道そのものによさがある道である。道の精髄というのだろうか。北山では根来坂や近江坂などにその類を見るが、この道はそれ以上の圧巻を示す。根来坂や近江坂などの掘れ込みは背丈の一・五倍くらいだが、この道は所によってはその三倍くらい掘れ込んでいる。文献がなくても口伝がなくても、如何にこの道が古くから重要な道だったかを否や応なく思い知らされる道である。文献や口伝には誤りがあるかもしれない。しかしこの道の深く掘れ込んだ風格ある重さには誤りようがない。これ程確かな実態が他にあるだろうか。こんな道を歩くと、少々生え込んではいてもお膳立てされ整備された道を歩くよりも心が締まるような感嘆を覚えるのである。」(82〜83頁)

宗峠の小畑側、峠の直下付近の道も、背丈の数倍の堀切があり、「如何にこの道が古くから重要な道だったかを否や応なく思い知らされる道」といえる。

宗峠の小畑側の道 宗峠の小畑側の道


宗峠の小畑側の道 宗峠の小畑側の道


宗峠 宗峠


小畑の取り付き付近が標高80メートル、峠が230メートルなので標高差は約150メートルである。

小畑の側では宗峠と書き、奥山の側では惣峠と書いている。

「そうとうげ」の音から、高浜の上津と舞鶴の多門院との間にある佐武峠のことを思う。

上津の佐武峠 上津の佐武峠


そして烏ヶ嶽の西南、醍醐寺のある猪崎の寒谷や、雲ヶ畑の祖父谷、大原の寒谷のことを連想する。

澤潔『北山を歩く』(ナカニシヤ)は雲ヶ畑の祖父谷についてサハ(沢)としている(『北山を歩く・1』79頁)。

サハ以外の可能性として地名辞典の類でよくいわれるのはソフ、ソブ、シブはかなけ(金気)、赤錆に関係があり、赤祖父、渋江、祖父江などは同系統の語だろうということである。

小畑には「かなや」(金谷・金屋)という小字もある。

もちろん本当の語源は誰にもわからず、色々な可能性があるが(楠原・溝手『地名用語語源辞典』東京堂の「さわ」「そぶ」「しぶ」の項を参照)、かなけ(金気)に関係させようと思えばそう見えるような一連の地名であり、実際に金谷には金属採掘跡の穴もある。

峠の北の斜面は植林で、斜面が風化し、倒木やシダも多いが、峠から西側(左岸)の斜面に回り込みながら、谷底に降りていく。

谷底に達すると早くも石積みの谷田の跡がある。

谷が狭いことを、谷の両側に物干竿を渡して物干が出来るようだといったりするが、小畑の広闊な谷底に対して、奥山や奈良原を含む南山の側は、相対的に谷が狭い。

極力、土地を有効利用する先人の努力が察せられる。

大局的に見れば何鹿郡は上林でも西部でも谷底は広い。周辺地域に米が不足すれば輸出する側であっただろう。

宗峠の奥山側の道 宗峠の奥山側の道


宗峠の奥山側の道 宗峠の奥山側の道


谷を左右に渡り返しながらおりていくと、棕櫚が目立つようになり、奥山の谷の本流との合流点に至る。

この合流点に道標があり、

右 ほうしふくち…左 をはたあや…

と記されている。「…」の部分は土に埋もれていることを示す。

左の小畑綾部は、宗峠を越えて小畑に行く道であり、右の報恩寺福知山は、次に述べる奥山乗越(仮)を通る道である。

奥山の道標 奥山の道標


(4)奥山乗越(仮)

上記の合流点から、長い谷の本流を真南へと進んでいく。谷底はどこまでも、段差のある田畑の跡である。棕櫚もかなり多く目にする。

奥山から奥山乗越(仮)への道 奥山から奥山乗越(仮)への道


途中までは普通に歩ける道があるが、この谷の源流部は荒れている。

標高200メートル付近が最も源流であり、大江と綾部の行政界を乗り越した地点に 右おく山 左山の口の道標が立っている。ここでは仮にこの乗越を奥山乗越と呼ぶ。小畑からの道も上がってきている。

奥山乗越の道標 奥山乗越の道標


小畑から奥山乗越(仮)への道 小畑から奥山乗越(仮)への道


この地点で、大江に属する谷の水が綾部に流れ込んでおり、分水界と行政界が一致していないことについては既に記した。http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=77

(5)北の金谷峠

奥山乗越(仮)から道は西南に進むが、まもなく複数に分流する。

右に分かれて尾根を越えるのを、ここでは仮に北の金谷峠と呼ぶ。

北の金谷峠は奥山乗越(仮)の真西、次に述べる南の金谷峠の真北にある鞍部であり、鞍部を越したあとは西の尾根を降りている。

この鞍部は次に述べる南の金谷峠よりはやや低く、また小畑から奈良原に行くためだけであれば、こちらの方がショートカットになるのではないかと考えられる。

「北の金谷峠」(仮) 「北の金谷峠」(仮)


(6)南の金谷峠

奥山乗越(仮)からそのまま西南に進むと、掘りの深い峠であり、ここでは仮に南の金谷峠と呼ぶ。これが一般的な金谷峠である。

奥山乗越(仮)から南の金谷峠への道 奥山乗越(仮)から南の金谷峠への道


「南の金谷峠」(金谷峠) 「南の金谷峠」(金谷峠)


「南の金谷峠」の西側(右下への道は奈良原、左への道は室尾谷) 「南の金谷峠」の西側(右下への道は奈良原、左への道は室尾谷)


南の金谷峠からやや南の地点から東に白道路の谷の展望 南の金谷峠からやや南の地点から東に白道路の谷の展望


ここから道は3通りに分かれる。

右は奈良原に降りる谷道であり、中は斜面のユリ道で、やがてサオリ峠付近に至る尾根道となる。最近旧道復旧作業が行なわれた道である。左は尾根に上がる道であるがやがて細くなる。

中のユリ道は峠から真西へ、標高250メートル前後の長い尾根道となり、サオリ峠付近に至る。

小畑に「むろたに」を示す道標があった。この「むろたに」の道はこの長い尾根道をさすと解釈できる。

『河東史誌』(1970)の「奥山農林道」という項目に「……稲田無き山道(旧村道)四百米は巾員三尺のまゝ小畑峠に至り、奈良原−小畑峠と合致して小畑村に降るので、往事は奈良原・奥山−小畑村−綾部街道として重要道路であった」(78頁)とある。

「小畑峠」が複数出てくるが、前者が奥山から奥山乗越(仮)の道、後者の奈良原−小畑峠というのが金谷峠の道と考えると、それが「合致して小畑村に降る」ことと辻褄が合う。小畑に越えるのだからいずれもが小畑峠と呼ばれていることは自然である。

(7)山野口乗越(仮)

では奥山乗越(仮)の道標にある「左山の口」も、この長い尾根道なのだろうか。

しかしいったん西へサオリ峠まで行き、そこから東へ反転して山野口に行くのは不自然である。

山野口の側から見てみる。

山野口バス停から東の谷に入り、北西へ詰めると「左 おばた ものべ」の道標がある。

山野口の「左 おばた ものべ」 山野口の「左 おばた ものべ」


そこから北側に斜面の道をあがっていく。途中の急斜面は階段状に整形されていて、段々畑か何かのようにも思われる。

そして上り詰めると、上記の長いユリ道の途中の地点に達するのである。南の金谷峠から西へ250メートルの地点である。

この途中の地点を仮に山野口乗越と呼ぶ。

「左 おばた ものべ」から山野口乗越(仮)への道 「左 おばた ものべ」から山野口乗越(仮)への道


山野口から小畑や物部に行く場合、自動車社会であれば南の報恩寺・私市を経由して大きく迂回する。しかしこの乗越を徒歩でこえれば迂回は不要である。

奥山から報恩寺に行くパターンを想定すれば、まず上記の「右 ほうしふくち(山)」から奥山乗越(仮)の「左 山の口」の前を通っていったん小畑の領域に入る。そしてすぐに南の金谷峠から小畑の領域を出てユリ道をたどり、山野口乗越から山野口に降りる。そして報恩寺から福知山へと至る。奥山乗越(仮)の「左 山の口」はこのような意味をもつものと解するのが自然であろう。

さらに、仮に南有路の人が報恩寺まで極力遠回りせず直線的に行きたい場合を考えてみる。南有路から枯木峠の谷に向かうが、枯木峠には行かず途中から南向の谷に入り、赤目坂の奥に出る。赤目坂を越えて奥山に出る。奥山からは上記の道筋で、奥山乗越(仮)から山野口乗越(仮)を経て報恩寺に出る。川北に行きたい場合は、報恩寺からさらにひとつ川北への峠を越えればよい。以上の道筋はほとんど直線である。

『丹波負笈録』の「山野口村」に関する記述に「東へ小幡郷道三筋山道間道悪」とある(綾部史談会版『丹波志何鹿郡部』1986年、99頁)。ここに述べた道は「三筋」のうち少なくとも一つと考えたい。

「奥山乗越」から北と南の金谷峠、そして「山野口乗越」の付近は、分水界であり、行政界であり、そして狭い区間に道が四通八達して目的ごとに交通を分岐させている。いわば「山上のインターチェンジ」といえよう。

(8)高倉峠

もちろん、小畑から報恩寺に行くためだけであれば山野口を迂回する必要はない。

小畑大池よりも西側から報恩寺に越える高倉峠は、標高200メートルほどであり、宗峠や2つの金屋峠が標高250メートルほどであるのに対してやや低い。

峠には割れた石碑の残骸が散らばり、「明」の文字が見える。

峠の北側は急斜面の植林で道はわかりにくくなっているが、急斜面を切り返して谷底に降り、あとは谷底を小畑にくだっていく。

高倉峠 高倉峠


高倉峠 高倉峠


高倉峠の西の谷から小畑の伊路屋側の谷の展望 高倉峠の西の尾根から小畑の伊路屋側の谷の展望


(9)谷奥の宇宙

以上で見たように自動車時代では行き止まりと見られがちな小畑の奥に、峠道が四通八達しており、しかも奥山、奈良原、室尾谷、山野口、報恩寺という山向こうの村々に行くには山を越えたほうが距離が近い。

たとえば古屋も同様であって、古屋は京都から洞峠を越えて田辺に行く田辺街道が通っており、決して行き止まりではなかった。

小畑の道標が「こうもり」や「むろたに」を指していることは、昔と今ではトラフィックのあり方が違うこと、「生きられた空間」が違うことを示している。

小畑大池のほとりに立って西を見る。右手の宗峠を越えると奥山を経て河守である。中央の金谷峠を越えると奈良原・室尾谷・山野口である。そして左手の高倉峠を越えると報恩寺である。

山野口も報恩寺も昔は何鹿郡であった。そして室尾谷・山野口に見られる金属採掘の痕跡が小畑の金谷にも見られる。

山越えの地域的一体性の要素としては、丹波の農産物と丹後の海産物との交易、山をはさんだ村々との通婚関係、室尾谷山観音寺を要とする宗教的交通、室尾谷・山野口・小畑を結ぶ金属産業の交通関係などが考えられる。

南山には金重あたりにロクロダニという小字もある。ロクロダニという小字で木地屋と関係がないということはなかなか考えがたい。

これは空想になるが、もしかしたらロクロダニの産物の一部分が小畑に越えて運ばれてきたような一場面もなかったのであろうか。

西空が茜に染まる日暮れ時、金谷峠の向こうに鬼ヶ城と室尾谷山観音寺の幻想が揺れる。

米、塩、金属、信仰、嫁入行列、木地物……。さまざまな「山越えの交通」の可能性を秘めて、山々は小畑の田園を囲繞しているのである。

小畑夕景 小畑夕景


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