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1.廃寺巡礼
1.廃寺巡礼 : 嶽山の向こうに寺の跡を探しに行く(その3)
Ƽ : Myあやべ 投稿日時: 2009-08-07 13:05:06 (3160 ヒット)

「小さな池があつて其中に石垣を結い橋を渡し辨財天が祭られ古寺の跡をのこしておる」(『志賀郷村誌』)という嶽(だけ)の弁天跡は、同じものが2つあるとは思われないため、正方形の環濠と石垣のある遺構が弁天跡と考えてよさそうだった。
http://www.myayabe.net/web/modules/walker/index.php?page=article&storyid=25

あとは寺そのものであった。弁天跡の横の敷地は狭く、落ちている瓦もかなり新しくて、寺自体の跡と考えるには釈然としないものがあった。

基本的には地図のみでどこまで辿れるかで努力してきたが、記事を掲載したことに伴い地元の方から示唆をいただく機会があり、寺跡は弁天跡の西方斜面にありそうであった。

この斜面は等高線からだけでは顕著な平地状地形は読み取りにくいため、検討は後回しになっていたが、山岳伽藍であれば大規模な平地にこだわることはないのだった。

空中写真を立体視で判読し、ピーク370メートルの南南東100メートル、標高340〜360メートルの地点に舌端状に突き出した小さな平地を検出した。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-6/c36a/ckk-75-6_c36a_27.jpg
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-6/c36a/ckk-75-6_c36a_28.jpg

2回目の現地行のさい、ピーク370メートルから南の尾根を進もうともしたが、標高点381メートルの南面をめぐる道跡の確認を優先したため、標高点381メートルの付近に戻った。しかしそのままピーク370メートルの南へ下降していればよかったのだった。


(1)嶽の寺

ピーク360メートルからピーク370メートルに進み、舌端状の平地を確認するためピーク370メートルから南南東に下降した。

まもなく半月状に削平された数メートル程度の台地があらわれた。

その南西に、礎石らしい大石の散在する広い台地があった。

この広い台地の北西にも、小さな石の転がる数メートル幅程度の台地があった。

広い台地の背後には右後ろにも左後ろにも小さな台地があることになり、ピーク370メートルから下降して最初に認識した半月状の台地は、右後ろのものであった。

広い台地の北面、台地が尾根を切っているところの斜面は、切ったように鋭利で、どこまでが自然地形でどこからが人工地形なのか、かなり人工の手を加えたようにも思えるのだった。

礎石の由来は、石の質を瞥見した限りでは現地調達と考えても矛盾ないようであった。

もうひとつは景観設計である。現状では樹木に覆われているが、もし樹がなければどのような展望が得られただろうか。

仮にこれが寺跡であるとして、「龍尾寺」という話(『丹後國加佐郡町村誌』『加佐郡誌』)とどういう関係にあるかがクリアになるまでは安心できない。

ここでは滝蔵山光明寺の跡であると仮定する。

弘治3年(1557)に瀧蔵山光明寺は炎上したという話がある。貴重な経典や文書もそのときに灰となったのだろうか。「焼失し、鎮守や弁財天及び礎石などを残していた」※という。
※山下潔己「綾部地方の仏教の伝播について(その三)−寺伝から−」『綾部史談』113号(1983.8.19)

仮に創建を正暦とすれば、この寺の存在時期は10世紀末〜16世紀となる。寺伝や社伝をどの程度文字通り受け取るかはあるが、寺伝や社伝の原文があればより具体的に考えられるだろう。

500〜600年の間存続し、火災で炎上したとすれば、トレンチによりそれぞれの年代における地表面を特定できないだろうか。火災時の地表面に炭化物の層があったり、火焼けした瓦があったりしないものだろうか。

この平地が火焔につつまれたとき、大量の水の得やすい場所ではなく、消火のすべもなかったかもしれない。

ただ一般に寺であれ村落であれその存続には生活用水の確保は不可欠である。寺の水源の特定は今後の論点だろう。寺もシステムとして存在しているので、水や道、食糧などを含めた全体像をつかみたい。

『丹後國加佐郡町村誌』に「古跡 廃寺址 村ノ東方字嶽ニアリ土人云正暦ノ頃此地ニ龍尾寺ト云巨刹アリシト今尚礎石ヲ存ス」とあるわけだが、「正暦ノ頃」といっても正暦は990〜995年で事実上4年間しかない。また「市杵嶋姫神社…[略]…正暦二年辛卯ノ創立ナリ祭日七月廿日」(『丹後國加佐郡町村誌』)とあるから少なくとも弁天社の創建は正暦二年(さらに推測すれば7月20日?)ではないか、寺の「正暦ノ頃」というのは正暦に創建されたという意味である可能性はないかという思いが残るわけである。

正暦二年の夏は旱害があったらしく、正暦寺には聖楽上人の雨乞いという話が残っている。また聖楽上人は正暦二年に綾部で複数の真言の寺を再興したという話がある。そのようなことから、根拠のないことながら、正暦二年の聖楽上人の活動が、この嶽の真言の寺や、水の神である弁天社と何か関係ないのか、というようなことを幻想している。

(リンク:綾部における正暦二年問題)
http://www.myayabe.net/web/modules/blog/details.php?blog_id=164

いったんこの台地の東側の斜面から弁天跡に降りた。寺であるからにはアプローチルートがあるはずで、それは弁天跡の谷の合流点から西南に斜面をあがっていく道のようであった。この西南に斜面をあがっていく道をたどると、寺跡の下に出た。

坊口から見ると、現在の長松寺の横から尾根を登り、市境の分水界に至る。分水界から北西にスライドする道をたどれば弁天跡である。弁天跡から南西に斜面をあがっていけば寺跡である。このようなつながりになっているのかもしれないと思われた。

寺跡から斜面をそのまま西に這い、「南の谷」の遷急点(瀧の落ち口)の手前で谷底に降りた。




(2)嶽峠の道の上の巨岩

嶽には天狗岩の伝承がある。どの岩を天狗岩と名付けるかは人為の世界であるため、古老の伝承をクロスチェックしなければ確証は得がたい。

ただ、各地にある天狗岩は特徴的な巨岩であることが多く、たとえば綾部市内では武吉の奥や浅原の奥志古田の奥などにあるから、共通する大体の傾向はつかむことができる。

天狗は山岳信仰や修験道、山伏とも関係のある表象だが、ここでいう天狗岩と関係あるかはわからない。

どれが天狗岩であるかは上記のとおり社会的なものがあるが、どこに巨岩があるかは自然の世界であるため議論できる。

すなわち嶽で巨岩が多いのは台地西方の地すべりの滑落崖、とくにその上端付近であると考えられる。大量の土砂が崩落し、岩盤が露出する。

突発的に別のところに巨岩があればそれまでだが、傾向としてはそうであろう。

地図の等高線を見ると、等高線が非常に密集しているのは「南の谷」の遷急点(滝の落ち口)の右岸にある南北方向の崖が典型的である。

特に標高280〜300メートルの付近は事実上、垂直に近い絶壁をなしていると考えられ、このことはたとえば、京都府・市町村共同 統合型地理情報システム(GIS)で表示できる2メートル間隔の等高線の密集をみれば明らかである。
http://g-kyoto.pref.kyoto.lg.jp/gis/usher.asp

嶽峠の道は「南の谷」の遷急点(滝の落ち口)から右岸へスライドしていく。

そして道の東側(谷側でなく山側)に巨岩がある。

植生のため全てを見通すことはできないが、この岩壁は北方へかなり長く続いていてもおかしくない。

道はこの岩の下を這うようにつけられている。そして岩の下部に棕櫚が生えていた。

ここでいえるのは、天狗岩かどうかはわからないが、この岩は天狗岩と呼ばれうるような条件にはあるだろうということである。

やはり「たきくら」か「たきのくら」という地名があるのではないかと考えた。

「志賀郷村字両河内 金剛寺 じひのなみ寄せてかはらぬ瀧の水流も清き瀧のくら山」(『何鹿郡誌』162頁)

タキノクラという地名があるなら、この険しい地形と合致するように思えた。ただ、このことは具体的に瀧蔵山という山名の由来情報が出てくればそれまでのことである。

※「くら」(楠原佑介・溝手理太郎『地名用語語源辞典』東京堂出版181頁)
(1)山中のきりたった岸壁。岩壁。断崖
(2)山の岩の多い所
(3)「谷」を意味する古語
……(4)〜(7)略




(3)仁和乗越(仮)

空中写真では嶽三角点の西南斜面をスライドしていくユリ道がある。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-6/c36a/ckk-75-6_c36a_27.jpg

この道は仁和から尾根を上がってくる道の延長上にあり、市境を越えて嶽三角点の西側にある谷を降りているのではないかと推定した。

南の谷の落ち口の巨岩のあと、この嶽三角点の西側の谷を遡った。

この谷は合流点付近では急であるため、道は右岸をスライドして「南の谷」と合しているのではないかと推測した。

嶽三角点の西側の谷は、明確な道は残っていないが、源流部分では畑か何かの跡のような平坦さがあった。

何か音がしたかと思うと、鹿が一匹疾駆していった。

この付近には炭焼跡を連想させる窪みもあった。

この源流地点から乗越の暗部を眺めると、峠の面影を備えていた。ここを仁和乗越(仮)と仮称することにした。

市境を越えて志賀の側へ乗り越すと、道は明瞭になった。ほぼ水平に感じられる道を進んでいくと植林のなかでかなり怪しくなったが、見失うほどではなかった。やがて三角点の南へ伸びる尾根に至り、道は屈曲しつつ、標高点271メートルのある尾根へ向かっているらしかった。

ここでは切り返して北に向かい、三角点の東面のユリ道を通って、三角点と東光坊との間にある谷に降りた。

弁天跡に戻ると、寺跡へと上がっていく道がなめらかなスロープを描いているのを認識した。

この山には正暦という話が本当だとして少なくとも千年の幅で人間活動の痕跡が残っているようであり、いくら探しても足りないほど色々な話がまだ埋もれているのではないかと感じられた。

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【正暦の頃】990〜995
「古跡 廃寺址 村ノ東方字嶽ニアリ土人云正暦ノ頃此地ニ龍尾寺ト云巨刹アリシト今尚礎石ヲ存ス」[1]

【正暦2年】991
「市杵嶋姫神社 社地東西十二間五分南北七間五分面積四十坪村ノ東方字嶽ニアリ市杵嶋姫命ヲ祭ル傳云正暦二年辛卯ノ創立ナリ祭日七月廿日」[1]
・聖楽上人が鏡智院を移して正暦寺(真言宗)の名を得た[2]
・聖楽上人が神宮寺の千手院(真言宗)を再興[2]
・「天下は旱天がうちつづき人民は苦しんだ」[3]

【弘治3年】1557
滝蔵山光明寺が焼失し、鎮守や弁財天及び礎石を残すのみとなった[4]

【永禄10年】1567
光明寺を現在地に移して再興[4]

【元和年中】1615〜1624
久昌寺三世道華元達が元和年中に長松寺を再興[4]

【慶長〜寛永】17世紀前半頃
芦田氏が市原谷集落を開拓[5]

(年表の文献)
[1]『丹後國加佐郡町村誌』
[2]福井政治『何鹿の歳時記』
[3]綾部市史上巻132頁
[4]山下潔己「綾部地方の仏教の伝播について(その三)−寺伝から−」『綾部史談』113号(1983.8.19)
[5]『加佐郡誌』158頁

嶽山地図

【注】これは暫定的な情報を記したものであり、さらに検証を続けることは課題です。このサイトの情報全般についても言えることですが、いずれの記事も当サイトの現時点での認識を記したものであり、情報自体および情報を利用なされた結果(道迷いその他諸般)については免責とさせてください。


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